ユメミダケ心中 第21回 男女の結 大団円
天を仰いだ征一の潤んだ視界の中、紅く点滅していたのは、旅館の天井に設えられていた火災報知器であった。
征一は、赤眼の鬼が二人の一部始終を監視しているみたいだと、ぼんやり、そんなことを考えた。
恭子はまだ殊勝に三つ指をついている。
その次の瞬間だった。
ジリリリリリリリリリイイィィィィィィィ・・・・
征一と恭子への祝福にしては、余りにも唐突に、それはまるで空気を引き裂くようにけたたましく、大音量のベルの音が旅館中に鳴り響いた。
そしてそれと共に、
ザアアアアァァァァァァァァァァァァァ・・・
凄まじい勢いの水が、天井から2人に向かって降り注ぐ。七輪で焦げたユメミダケの煙と錬炭の赤外線を天井の火災報知器のセンサーが感知して、非常ベルとスプリンクラーを緊急作動させたのだ。
やがて館内放送が緊急事態を告げて、方々の部屋から悲鳴や怒号が聞こえ始めた。
廊下を仲居らがバタバタと右往左往している。玄関付近は、蜂の巣をつついたような騒ぎだ。
2人の馬鹿馬鹿しい心中ごっこのせいで、山間(やまあい)の鄙びた宿の静かな夜が、一瞬にしてパニック状態に陥ってしまった。
ずぶ濡れの2人は、ただ茫然としながら徐々に大きくなってくるサイレンの音を聞いていた。
その晩遅く、征一と恭子は、お互いの本名と正確な住所地を消防署からの事情聴取と、旅館への損害賠償の念書で初めて知ることになった。
驚いたことに二人は、お互いの氏素性も明かさぬままに求婚し、散々のすったもんだを繰り返した末、匿名のまま未来永劫の愛を誓い合ったのである。
当然の如く二人は、聴取の際も心中のことなどには触れず、ただ取ってきたキノコを焼いて食べようとしたと供述し、それは聴取に当たった消防署員に何の不審も与えることなく、こっぴどく大目玉を食らったものの、明け方近くには解放され、2人は、そそくさと逃げるようにして、この山間の鉱泉の宿を後にした。
紅葉にはちょっと早い秋のことだった。
挙式が迫ると、誰しも不安になると周囲から言われ続けてきたが、不思議と恭子にはそんな感覚は起こらなかった。
恭子にとって、これまでの人生や、あの一夜の不安と葛藤に比べたら、そんなものはまるで取るに足らないママゴトのようにさえ思えた。
最近綺麗になったとよく言われる。結婚前のご祝儀代わりのお世辞に違いないのだろうが、それにしても、まあ悪い気はしなかった。
いや、以前の恭子なら、そんなことを言われようものなら、狭い心の生み出す下衆の勘ぐりで、裏の裏を読んで妬み謗り、そんな会話すら周囲とは交わすことも出来なかったろう。
征一の住むアパートは恭子の勤務先からも交通の便もよく、2DKの割には収納スペースもかなりあり、二人はここで結婚生活をスタートさせることにしていた。
しかし、征一の蔵書、特に毒キノコに関する専門書が、部屋中のいたるところにそれこそ山積みされており、それは、すぐに二人の生活を始める大きな障壁となっていた。
しかしながら、挙式が近づくと意外にも土日には、結婚式や新生活に関する所用が重なってしまうもので、部屋の掃除は遅々として進まず、今日とて恭子は休暇を取り、大掃除の為にこの部屋を訪れていた。
授業のある征一は当然いない。エプロン姿でハタキを手にした恭子が、
散らばった本や専門誌を新しく購入した本棚に収めて、それ以外のものは、今後生活しやすい場所にそれぞれ配置していく。そんな作業を延々と繰り返し、昼近くなりようやく一段落がついた。
しかし、まだまだだ。午後はキッチンと換気扇の大掃除が待っている。
綺麗にしたばかりの征一の机に腰掛けた恭子は、持参したお弁当で腹ごしらえをすることにした。なかなかの出来栄えだった。
もともと料理は嫌いではなかったのだが、最近ちょっと上達したかなと恭子は自画自賛した。でも、この玉子焼きだと、征一には少し甘過ぎるかもしれない。
恭子はふと箸を置いて、眼の前の分厚い本に手を伸ばした。これもまた、毒キノコの原色図鑑であった。恭子は、いつものように巻末の索引を開く。アイウエオ順に視線で追い、ヤ行でそれが止まった。
「ふふふ・・・」
これまで十数冊、同じようにキノコ図鑑をこの部屋で開いた。でも、そのいずれにも「ユメミダケ」は載っていなかった。そして、この本にも「ユメミダケ」は、無い。恭子は、もう1度「ふっ」と小さく笑うと分厚い本を元の位置に戻した。
携帯が鳴って、征一から5時過ぎには帰るとのメールが届いた。窓の外から微かにジングルベルが聞こえる。
「今日から師走か」と思い、恭子は玉子焼きを頬張り、やはり征一にはちょっと甘過ぎるだろうなと思った。
《完》
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