20 憤怒の妻のパラドックス
貴方々には、想像できるであろうか。我が人生の伴侶として苦楽を共にしようと誓った最愛の妻が、顔面中の血管という血管を浮き立たせて激烈に憤っている様を。
しかし、これ程までに憤怒の表情の妻は、随分と久し振りの気がする。一体、あれは、いつだったろうか?そうそう。あれは確か一昨年の暮、私に散々文句を言われた末にようやっと重い腰を上げて、脹れてぶつぶつ言いながらも大掃除を手伝っていた時のことだ。
妻は、再三述べている通り白米が大好きである。それ程に大好きな白米であるからして、本来であれば、コシヒカリであるとか、ササニシキであるとか、ヒトメボレであるとか、美味の誉れ高い高級ブランド米をたらふく食いたいはずなのであるが、しかし、この妻の食欲、すなわち白米の消費量は半端ではなく、通常の育ち盛りの高校生、しかも男子運動部員の3人分、いや、4人分には匹敵するものであるから、限りある家計、つまりは、決して高くは無い私の給料をどうにか遣り繰りして、エンゲル係数の限界まで食費(ほぼ米)に充当した結果、我々夫婦、というより妻は、買物の都度、究極の選択を余儀なくされるのである。質を重視するか、若しくは、量を重視するか、である。
しかしながら、最低でも1度の食事で丼に3杯の白米をかっ込む妻が、茶碗に1杯でもいいからコシヒカリを喰おうと決断するには、血涙を流す様な覚悟が必要なのは火を見るより明らかであり、熟慮、熟考、深謀の末、結局は、それも叶わず、つまりは、妻はブランド米に強烈に憧れつつも、最終的には、いつも一山いくらの米に甘んじてしまっているのである。
実はそんな妻が、家宝の如く、それは大事に大事に仕舞い込み、いつの日にか腹いっぱい喰ってやろうと夢に見ていた、お歳暮で実家から送られてきた魚沼産超高級ササニシキ5キログラム。それが、暖冬の影響からか、物の見事にカビていたのを大掃除の際に妻は、自らの目で発見してしまったのである。
このカビたるや、満遍なく、情け容赦なく、一粒残らず発生しており、もう、とても喰えたものではないと、判った時の妻、それが、あの仁王立像の如き憤怒の妻であった。
その後、妻は、一掴みのササニシキを生のままほうばりバリバリと噛み砕いたが、「不味い」と言ってぺっと吐き出すと、この部屋、つまり3階のベランダから、かの憤怒の表情で無言のまま、超高級ササニシキ5キログラムを表通りに向けてぶちまけたのである。
突然落下してきた白米、ライスシャワーに驚いた通行人が何人も階上を見上げるのだが、激怒、憤怒の形相の妻を目にするや、誰もが見なかった振りを決め込んで、そそくさと足早に立ち去っていくのだった。
まさに、あの時と同レベルの怒りを保持した妻が、また、この目の前にいる。
「メシヤマッ・・・、ちゃん」
流石に救世主に対して呼び捨ては不味いと思ったのだろう、妻は後から付け足したような物言いでそう呼んだのだが、むしろ、それが圧倒的な威圧感を、飯山君に与えていた。
「あんたはね。もう、既に、自分であって、自分でないのよ。判る?キリストちゃんだって、仏陀ちゃんだって、モハメッドちゃんだってそうよ。救世主たるもの、自分を捨てて、世の為、人の為に、その身を削って尽くすのが、これが、あんたら救世主たる者の義務なのよ、ね」
恐らく、世界で一番説得力の無い発言かもしれない。それに飯山君だけならいざ知らず、なんと妻は、キリスト、仏陀、モハメッドの3人まで、ちゃんづけはおろか、まとめてあんたら呼ばわりしてるではないか。
「あ、あの、だってまだ、ぼ、僕が救世主だって、あの、決まったわけじゃ、ないじゃないですか」
健気にも飯山君は、精一杯の反撃を試みている。
「馬鹿ねえ、あんた。そうよ、その通りなのよ。だからこそ、分る?、だからこそ、あんたのことを思ってあげているあたしたちが、あんたの出生だとかを分析することによって、あんたが救世主か、そうでないのかを、調べてあげてんじゃないの。
もしあんたが救世主じゃないとするならば、当然あんたのプライバシーは守られるべきよ。でもね、あんたが救世主でないことを証明する為には、あんたのプライバシーの開示が必要とされているのよ。いい? 全ては、あんたの為なのよ。そこんとこ、よく覚えてらっしゃいよ。あんまり頭よさそうじゃないけど、あんた、この理屈が理解できてる?」
欲得に塗れた妻は、見た目もさることながら、やはり恐ろしい。なんという屁理屈。
この、クレタ人の詭弁にも似たパラドックスに、キューセーシュの飯山君は、目を白黒させてしまっている。
第21回「語り出した救世主」へつづく
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