12 テーブル上の敬虔な信徒
息を呑む私たち夫婦に目もくれず、携帯を切ったキューセーシュの青年イヤミ君は、その後も、実に、力感溢れる太字かつ高速の「のの字」を一心不乱にテーブルの隅に刻みつつ、その一点、敢えて言うならば「のの字」の末尾の払いの辺りを凝視したまま、言葉を外に吐き出さないように口中に篭もらせて、否定とも肯定とも取れるような妙な響きの独り言を繰り返している。
私たちは、電話の内容、並びに、その独り言の中身が、気になって、気になって、気になって仕方がないのであるが、先程までと明らかに、どう考えても様相の異なった、
まるで、何者かが憑依したような彼に触れるのが、正直なところ、ひどく恐ろし気で、思うように会話の口火を切れずに、ずっとそのまま、彼が素に戻ってくれるのをじっと待っていた。
それは例えて言うならば、最新設備であるのが売りという初めて訪れた歯医者が、思いもかけず、いかにも不器用そう、下手糞そうな顔をしていて、キュルキュルキュルルルルルルと響くドリルの合間に「クソっ」とか、「あっ」とか言う声が漏れ聞こえる待合室でただ、じっと、順番を待つ緊張感にも似ていた。
更に、時間が経過した。私たちには、もう何分もこうしているように感じたのだが、実のところ、30秒程度に過ぎなかったのかもしれない。ふいに、高速の「のの字」が、はたと止まった、と思うと、
「あっ、す、すみません。あの、僕、考え事、しちゃって、自分の世界に入っちゃってました」
唐突にキューセーシュの青年イヤミ君が、向こうの世界からテーブルの上で四つん這いになったまま彼を凝視する妻と、みしみしと軋んでいるテーブルを支え続ける私の元に戻ってきた。
「あ、あの、す、すみません・・・」
まるで、すとんと、狐でも落ちたかのように、彼は、相変わらず「あのあの」の彼のままだった。
これならば勝算ありと見たか、すかさず、テーブルで四つん這いのままの妻が、まさに獰猛な肉食獣の如き勢いで質した。但し、この肉食獣の主食は白米なのだが。
「只事じゃないわね、今の電話。
今の人って、橋本さんだっけ?もしかしてさ、宝くじでも、当たったんじゃないの?」
妻の質問に、彼は、目を逸らさないまま、ひとつ深く息を吸うと、ゆっくりと、頷いた。
「あの、2日前だったんですけど。お金がなくて、生活ができないから何とかしてくれって、さっきの橋本さんから、そんな相談を受けたんです。でも、僕だって、この通りフリーターですし、お金を貸してあげることなんて、とてもできなかったんです。そ、そしたら、橋本さん、最後の手持ちのお金で勝負をかけるから、数字を教えろって言うんです」
「じゃあ、宝くじじゃなくって、ロトくじみたいなやつなのね?」
「た、たぶん、そうだと思います。僕、そういうの、買ったことないんで、わからないんですが、頭に浮かんだ数字を4つ教えてくれって」
「ふ〜ん。あたしも、ロトくじなんて、買ったこと無いわ」
「それ、ナンバーズ4だよ、きっと。実は僕、結構やってるんだ、ナンバーズ4」
私は、すっかり信用を落として、半ば疎外された状態から、やっと脱出するきっかけを掴んだ喜びのあまり、妻が乗ってみしみし言ってるテーブルから思わず手を離してしまった。テーブルがぐらっと揺れて、妻が小さく「ひっ」と叫んだが、私は、そんな妻に構わず、ナンバーズ4の説明を続けた。
ナンバーズ4とは、基本的には、ロトと同じく数字を選ぶ形式のくじなのだが、6桁のロト6や、5桁のミニロトと比べると遥かに高確率で、しかも毎日が抽選日となっている。
しかし、高確率とは言え、4桁の数字の組合せなので、どんぴしゃの確率は、僅か10000分の1に過ぎない。しかし、それ故4桁が全て的中した1等のストレートならば、90万円から120万円を手にすることが出来るのである。
「あんた、そんなのこっそり買ってるの?あたし、そんなの、全然聞いてないわよ」
「い、いや、こ、小遣いの範囲に決まってるじゃないか。し、しかも、ちっとも当たらないし・・・」
とんだ薮蛇だ。
「ふん、まあ、いいわ。当たったら、必ず教えなさいよね。で、その、ナントカ4ってのが、当たったの?橋本さん」
テーブルの上、四つん這いの妻が顔の向きを変える毎、テーブルが小刻みに左右に揺れるのだが、思いの外その揺れに順応している妻は、サーフィンのようにこれを楽しみ始めているようだ。
「113万円って言ってたから、たぶん・・・」
妻がまた私に向き直り、それにつれてテーブルがまた、みしっと言った。
「ねえ、覚えてるでしょ?さっきあたし、あんたに言ったこと。本当の神様ならダイエットばっかりじゃなくって、金運や探し物なんかも付録としてお願いできるだろうって。まさにそうじゃない?これって。これは、正直、ダイエットなんかにうつつをぬかしてる場合じゃ、ないわよ」
「・・・・・」
返す言葉を失っている私から視線を移した妻は、その視線の先の彼、キューセーシュの青年イヤミ君に向かってニヤリと笑った。
「あんた、頼んだわよ」
「は?」
「あんたは、自分でも気づいてないかもしれないけど、本物だってことよ。本物の、救・世・主。北北東の猫のミーコに、4桁くじ、113万ですもん、これは、もう、間違いないわよ。そんなご利益、ダイエットにだけ使うなんて、勿体無いわ。だって、あたし、願いごと山ほどあるのよ」
妻はうっとりしたような表情で天井を仰ぐと、天板の端をしっかり掴んでいた両手を離すや、その手を一旦天に掲げてから、胸の前で固く組んで、懺悔をするが如く救世主たる彼に向かって跪(ひざまず)いたのだった。しかしその場所は、あくまでも、テーブルの天板の上のままだったが。
第13回「1/160,000の神話」へつづく
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