11 北北東の迷い猫ミーコちゃん
「あ、もしもし、あの、キューセーシュです」
えーっ?なになになに?キューセーシュですって、いつも電話、こんな風にして取ってんのかい?言っちゃ悪いが、神様なめてると、仕舞いにゃ罰当たるぞ。
「はい、はい、覚えてますよ。あの、武藤さんですよね。ええ、ええ、はい、はい」
私はキューセーシュの青年イヤミ君の電話の応対に正直驚いたが、妻は、当たり前の様に、平然とそれを聞き流している。
救いを求める電話の謎は解明されていないものの、私は未だに、この貧相な青年がとても救世主だとは思えないし、彼だって実際、さっきからそれを否定していたのだ。
それでも妻は、まだ、こいつが救世主だと信じているのだろうか?
「えっ?そうですかぁ。本当に?へーっ。ミーコちゃんがねえ、ええ、それは良かった。いえいえ、大したことじゃありませんから。いえいえいえ、はい、わざわざありがとうございます」
武藤敬子さんからの電話は、断片的に聞いただけでも、私にもある程度の内容は、分かったような気がした。
彼は少し照れ笑いを浮かべながら通話ボタンをを切り、携帯をパタンと閉じると信用を落とした私には一瞥もくれずに、テーブル席でデカ長のようにでんと構える妻の方に歩み寄り、迷い猫のミーコに関する捜索結果を報告した。完全にこの空間での序列をまざまざと思い知らされた瞬間だった。
「武藤さんちの家出したミーコちゃん、さっき、無事見つかったそうです」
「そりゃあ、良かったじゃない。で、今、あんた、お礼言われてなかった?相談された時に、何か、してあげたの?その武藤さんとやらにさ」
彼は、歯を顕にしてへへへと自嘲気味に笑うと、照れ臭そうにテーブルクロスをちょっと引っ張って、また、妻の嫌いな「のの字」を書き始めた。
「そ、それが、あの、馬鹿みたいな話しなんですけど、武藤さんが、あんまり真剣にミーコちゃんを心配していて、あの、なかなか電話を切ってくれなくって、丁度、僕、バイトに出なきゃいけない時間だったもんですから、あの、適当に、その、北北東の方角を探しなさいって、口から、でまかせ言っちゃったんです。いや、あの、悪いとは思ったんですけど・・・」
「えっ?で、もしかして、北北東にいたの?ミーコちゃん」
妻が、いきなり身を乗り出したものだから、驚いたキューセーシュの青年イヤミ君は、
のの字を書いていた体勢のまま、人差し指1本を掲げて半歩ほど後ろに飛び退いた。
「ええ、あの、こういうのなんて言うんでしたっけ?瓢箪から駒で、いいんですよね?武藤さんちの北北東の見当に、空き家があるらしいんですが、それがどういう拍子かミーコちゃん、そこの物置から出られなくなっちゃってたらしいんです。武藤さん、そりゃあ、喜んでましたよ。あ、笑っちゃいけないんですけどね。いやあ、こんなことも、あるもんなんですねえ」
妻の眼が、キラリと妖しく光ったのを、私は見逃さなかった。恐らくここから、妻の独善的な論理が展開されそうな予感がする。妻の眼は見開かれて、分厚い唇の端が、キューッと吊り上がり、息を吸い込んで、さあ、これからと言う時だった。
「唄はちゃっきり節 男は次郎長 花はたちばな 夏はたちばな 茶のかおり〜♪」
また、着信だ。相談の電話らしい。肩透かしを食らって、つんのめりそうになっている妻を尻目に、彼は、ディスプレイの表示を見て、憂鬱そうにふうっと溜息をついてから、通話ボタンを押した。
「あ、もしもし、キューセーシュです。ええ、わかってますよ、橋本さんですよね。はいはいはい。この間は、お金貸してあげられなくて、ごめんなさいね。その後、景気はどうですか?ええ、ええ、ええ。えっ?何?当たったって、何が?ええっ?冗談でしょう? 冗談。ええっ?だって、そんな、馬鹿なこと・・・」
只事でなさそうな電話の内容に、あのものぐさ極まりない妻が、テーブルに片膝を乗り上げるほどに身を乗り出したのだが、眉間に深い皺を寄せたキューセーシュの青年イヤミ君は、その恐ろし気な姿にまるで動じることはなく、取り憑かれたように、ひたすら「のの字」を高速で書いている。
妻を乗せたテーブルが、ミシミシ軋んで、呻き声の様に苦しげだ。
第12回「テーブルの上の敬虔な信徒」へつづく
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