やさしいあなたに、そうでないあなたにも。
                        いろんなあなたに、こころの言葉。













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名 前/maruzoh こと 熱田丸蔵
出没地/和光、富士宮、麹町
誕生日/9月7日 乙女座
好きなもの/こども、詩、絵、童話、小説、音楽、お酒、美味しいもの、犬、野球、寺、神社、花、ギター、家族
とても影響を受けた人/灰谷健次郎さん、鹿島和夫さん、ドン・カ・ジョンさん、かしわ哲さん、PANTAさん、ジョン・ライドンさん、小澤征爾さん、帚木蓬生さん
maruzohより一言/運も、人も、夢だって、欲しがり過ぎると逃げてっちゃう。幸せは、み〜んな天下のマワリモノ。みんなで仲良く分け合おう♪

2013年10月11日

【エッセイ】志摩守さんこんにちわ


【エッセイ】志摩守さんこんにちわ 


 この頃墓地が気持ちのわるい所でなくなった。何だかホッとすることさえあって、私も歳だなぁと思う。両親が亡くなって十年以上もたつと墓参りも彼岸行事の一つになってしまう。帰りたまにはいつもと違う道を歩いていたらひときわ古い、苔むした墓がある。目を凝らすと井出志摩守という字が読めた。
「これ、あの井出志摩守さん?」
「この寺の敷地は、志摩守が寄進したんだよ」
 夫は郷土史研究会の会員で、仕事の余暇にいま志摩守の資料を集めている。井出志摩守というのはこの町の小学校六年生の社会科副読本に、二、三行載っている代官の名である。それにしても実家の墓と二十メートルも離れていない所に志摩守の墓があったとは――。しかし死んだのは慶長十四年江戸も前期だがこの墓は江戸後期の天保十一年(一八四〇)子孫の下級官吏が建てたらしい。先祖自慢ぽい気がしないでもない。「墓は三島の蓮行寺にも、蒲原の妙隆寺にもあるし、他にも二、三あるよ」という。家に帰って早速夫の集めた資料を広げていると何だかぞくぞくと興味が湧いてきた。
 井出家はこの近くの出らしいが定かではない。父の正直は今川氏について高山城攻めで戦功があり永禄五年(一五五八)氏真から感状をもらっている。そして永禄十二年の武田氏との戦で守備した大宮城で深手を負い死んだ武人である。天正十年(一五八二)織田信長が甲斐武田氏を攻めた時、先鋒として従った徳川家康はわが富士宮の北山本門寺に立ち寄り必勝を祈願した。その時日出上人から日出という名と八十八歳という歳にあやかりたいとオマンダラを借りた。その合戦で家康は鉄砲に当たったが弾がマンダラで止まって命拾いしたという話が伝えられている。凱旋の途中北山本門寺に寄った家康からお礼をといわれた日出上人は用水路の建設を望んだ。
 上井出・北山の水無し地帯に飲料と灌漑用の水路を二里(約八キロメートル)にわたり引いた。八月一日着工、十二月十五日にはもう通水したという。沢を渡す掛樋、丘の下を通すトンネルの埋め樋、当時としてすばやい、高度の土木知識で家康から非凡な才能を認められ、地方支配代官に登用されたのが成人した正直の子、井出志摩守正次その人だったのである。
 結果、家康の領地となったこの地方の生産性は飛躍的に上がったと思われる。志摩守は用水管理はしっかり受益者負担にしている。
 後に豊臣秀吉の小田原征伐に家康に従って山中城を攻めた時も、軍功はないが感状をもらっている。これは武人の父に対し、息子正次は農政家・経済・科学・政治的に有能だったと思われる。
 『寛政重諸家譜』に面白い話が載っている。「十八年小田原の陣のとき仰をけたまわりて豊臣太閤を鞠子の駅舎にて饗応す。太閤鞠子にとどまらずして直ちに府中に赴く。よりて正次(志摩守).が用意違いしかば府中にいたりこの事申さんとて馬に鞭て安部(倍)川の下の瀬を渡る。太閤はるかにこれを見、左右して姓名を問しむ。正次頓首して、實を以て答う。かくて太閤駿府城にいり、東照宮と雑談の間ついに正次がことに及ばれ、東照宮其君命をなをざりにせざる事感ぜられ正次をめして時服、黄金をたまふ。」とある。頓首というのがわからなくて手許の字引きでみると、中国の礼式で頭で地をたたいて敬意をあらわすこととある。志摩守さんを時代劇で見るようで、細心、律義な人でもあったようだ。
 この年より駿河・伊豆を支配し、その年の七月北条氏没落。文禄元年(一五九二)三島代官となり、同四年より駿府町奉行を兼任し志摩守に叙任する。
 しかしこれから十四年後の慶長十四年(一六〇九)五十八歳で自刃することになる。その時養子はまだ九歳とか自分の子どもはなかったらしい。また信仰心の強い人で、多く寺を中興したり、寺領を寄進したりしているが、自殺の原因も資料によりまちまちで五つぐらいある。その中で一番信憑性の高いのは『三島市史』にある事件ではなかろうか。
 慶長十四年家康上洛の時、志摩守に命じて富士川に舟橋をかけさせた。家康が通過した後、程経て船をつないだ鎖が切れ多くの人が流された。すぐ家康に報告に馬を走らせたが興津の清見寺で休んでいるのも知らず行き過ぎてしまい、他の者が先に報告してしまった。郡代として責任を感じ、三島へ帰り自分の建立した蓮行寺にて自害したとある。
 この前の日曜日、夫が蒲原の妙隆寺にある墓の写真を撮りに行くというのでついていった。気さくな大黒さんが案内してくださった墓は寺を廻りこむように上った日当たりのいい山の中腹にびっしり並んだ墓の一番先端にあった。「その頃はここまで海だったんですよ」というその先端が自害の場だったという。
 すぐ隣に八代目の側室の墓だという小さな墓が寄り添うようにあって、真面目・律義で有能だが自分にも他人にも厳しい、おそらく血液型はA型の志摩守さんに色を添えていた。

《終》


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posted by maruzoh at 08:04| Comment(0) | ◆澤田節子作品集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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