【エッセイ】二つの爪引きの石曼荼羅
菜の花の黄色がこんなに鮮やかだったとは思わなかった。青い空、緑の畑、車の窓をいっぱい開けて春の風を楽しむ。一車線の農道で白い車が停まっている。見ると無人スタンドで買い物中。私も後ろに止めて覗いてみる。柔らかそうな菜の花、春菊、古漬けタクアン、あく抜きした蕨、どれでも百円。安い!
今日は郷土史の研究グループに入っている夫の取材に付いて、爪引きの石曼荼羅を取材にきた。
ここはわが町富士宮から車で二十分、日本三大急流の一つ富士川に支流の芝川が合流する所、その地名も芝川町。人口一万人ぐらいののどかな町である。目当ての爪引き石曼荼羅のある所は、かつて河合千軒といわれた歴史の町であることを、今日初めて知った。
『炎立つ』という題名でNHKの大河ドラマになった奥州安倍一族との戦い(前九年の役)で、朝廷方八幡太郎義家について戦い、七騎武者といわれた大宅大二郎光任がいた。源頼朝が鎌倉幕府を開いてから全国将兵に与えた恩賞で、孫の代に当たる光延が駿河国高橋・由比・西山の三郷を授かり、京よりこの地に移住した。一族郎党は上・下屋敷に分かれて住み、山間の地は急に賑やかになった。河合千軒とはその頃の名残だという。
光延はのちに仏門に入り、河合入道となった。その娘妙福は甲斐の大井庄司光重に嫁ぎ、その子がのちの日興上人である。日興上人は日蓮の高弟の一人。全国的にも有名な富士宮市にある大石寺を建立した。日興上人はこの地を離れるとき、亡き母妙福の菩提を弔うため、弟子の日禅に命じて妙福寺を建立させ、自分は岩石に爪で曼荼羅を刻んだ。
しかし河合千軒の賑わいも長くは続かなかった。光延から三代目大宅八郎吉清のとき、奇しくも次の大河ドラマ『太平記』の戦乱に巻き込まれた。大宅一族は足利尊氏と戦い、吉清は西山太郎秀吉と共に戦死、河合千軒はすべて焼き払われた。だが石曼荼羅は残った。
現在の寺は、元禄年間(一六六八―一七〇三)日隨という僧によって再建され、名も妙興寺となった。爪引き石はそこに妙福の墓と並んで建っているという。妙興寺は思ったより小さな寺で、爪引き石はすぐ分かった。墓地の入り口に、五十センチぐらいの石柱のような、柔らかそうな石があり、そこに釘で引っ掻いたような書体で、「南無妙法蓮華経」と書かれている。爪では無理だと思うがなるほどと納得。並んでいるという妙福の墓がないので住職に聞いてみようと住宅に行くと留守だった。「勤めに出ているのかもな」と夫が引き返してくる。私は中学の頃、国語と社会が坊さんで、時々葬式で休んだのを思い出した。
寺に隣接する墓地を抜けると民家の庭先で犬と遊んでいる娘さんがいた。こんな田舎でも雑誌から抜け出したようなあか抜けた娘さんがいるのに驚いた。「ちょっと母を呼んできますね」
と立ち上がりながら、娘さんは、爪引き石など聞いたこともないといった。
「ああ、すぐそこですよ」
前掛けをはたきながら出てきた奥さんは、先になって案内してくれた。
「これが爪引きの石曼荼羅です」
それは、二メートル近いのに女性的な印象を抱かせる日興上人の母、妙福の墓と並んでバランスよく立っていた。爪引き石は、大きな岩石を二つに割って表面を磨き、枠をとって額縁のようにしてある。その中に、いかにも爪で書いたような字体で題目が刻まれている。
ひょっとするともとの妙福寺の境内はここまであったのかも知れない。江戸時代に再興した寺は三〇メートルも縮小したことになる。寺にも盛衰はあるんだなと思った。そして今の境内にある釘書きの石の方が本物ではなかろうかと思った。いくら柔らかくても爪で石に字が書けるわけがないし、ましてこんな御影石のような堅い石に爪が立つはずがない。しかし只の石柱に釘一本書きにより、この重々しい丸い石の方が、はるかに見栄えはする。
おそらく、身延山久遠寺に通ずる街道に面していたこの寺には、身延参りの信者や旅人が爪引きの石曼荼羅を見に立ち寄って参拝しただろう。そこでもっと立派にと造り、墓の隣に並べたのではなかろうか。二つは長型と丸型で形としても調和していた。私は境内の金釘調の方が本物だなと思った。
「伝承だから、嘘か真かなんてたいしたことじゃない。それを伝えてきた人の心や、その心を育む生活や文化の方が大切だと思うよ」
夫は教育委員会で出している『芝川町誌』にもそうあるからと、丸い堅い石の方を使うらしい。
夕食の仕度で、無人スタンドで買ってきた八百屋の三束分はあろうかと思う菜の花を茹でた。やんごとなき人の末裔かも知れない、親切で、美人でおっとりした人たちの祖先も、二つの爪引き石で観光誘致をしたのかも知れない。したたかでないと生き残れないのである。
《終》
※本サイトの作品は、にほんブログ村「現代小説」ランキング、人気ブログランキング「現代小説」に参加しています。宜しければ、クリックお願い致します。

