【エッセイ】母と娘
白く泡だつ航跡にかもめが群がって、ついてくる。このかもめたち、どうやらスクリューでかき回されて驚いて海面に出てくる小魚がお目当てらしい。
私たち夫婦は、二泊三日の佐渡ツアーに参加していた。個人の旅や、フルムーンも何回か経験したが、安くておまかせの旅もなかなかいいものだ。県内の営業所からの寄せ集めというのも、気を使わなくて助かる。
昨日は新潟泊り、日本海の幸は一味違う新鮮さだった。今日はいよいよ本命の佐渡である。目の前の「おけさ丸」という船は全長百三十五メートル、一万二千四百十九トンで、千五百二十人乗りとは驚いた。乗船もバスに乗ったままだった。中はまるでホテル。デッキに出ると、ビルの四階ぐらいから眺めた感じがする。
「サイフが無くなった話、聞きました?」
「バスの中で、こ耳にはさんだけど……」
「年寄リだし、中味がたくさん入っていたのかすごく落ち込んじゃって……。枕の下に確かに入れたって言い張ってるみたい。同室だった人は嫌な思いしてるよね」
昨夜はツインだった。女性の添乗員は、朝から携帯電話で声をひそめてあちこちに当たっている。
「貴女と一緒に旅するなんて、思いもかけなかったわねぇ」
私は昨日から何回も口にした言葉を、また口にしてしまった。
「富士宮から四人とは聞いていたけど、他の二人がお宅だったなんてねぇ」
私と彼女は三十年近い昔の知り合いだった。十年ほど前にやめたが、その頃私は近くにある観光地に土産物を卸す仕事をしていた。自分で企画して、染めに出し、内職の人に縫ってもらって製品に仕上げた。暖簾や法被、ハンカチなどを売った。高度成長の始まりで世の中は活気があり、庶民が気軽に旅行に出始めた時期で、私の土産も結構売れた。彼女はその土産物屋さんの娘さんだった。元気のいい娘さんという印象がある。今も元気のいいお母さんだが、連れていた娘さんが、一見して病弱というより身障者に見えた。高校生ぐらいかなと思ったが、実はもっと上のようだ。言葉も聞き取りにくいが、話の内容は同年代の健常者以上の観察力だ。なにより母も娘も周囲に対しても、ごく自然に振るまっているのが好感がもてた。私も聞き取れないときは、「何に?」と聞きかえして、つとめて平常心で話した。私の方が緊張していたようだ。
「あれ、佐渡じゃない?」
娘さんの指差すほうに島影が見えてきた。
二時間二十分の乗船中、潮風に吹かれながらデッキでいろいろの話をした。昔の話や、観光の様変わり、家族のことなど。娘さんの病気の話はしなかったので私も尋ねない。でも授産所のような所だろうか、電車で隣町へ勤めている。昨年の夏はハワイにも行ってきたという。
「子どもさんは?」と聞かれて、「もう二人とも結婚してる。お宅はひとり?」とだけ聞いた。「そう、ひとり。出来るだけ、こうして一緒にいられるように」
その後の長い沈黙がいろいろのことを物語った。
「いい育て方をしたわね。娘さん生き生きしてるもの」
というのが精一杯だった。私は彼女の瞼がふっと赤くふくれ上がり、涙が浮かんだのを、見ぬ振りをして髪を掻き上げた。
下船のときバスに乗るとすぐ、添乗員さんから「うれしい知らせがあります」と、サイフが出てきたことが伝えられた。ホテルに置き忘れてあったが枕の下ではなかったらしい。思わず拍手が起こった。
昼食は新米の新潟コシヒカリに、かにの味噌汁、そして海の幸。私は船に揺られてお腹が空いたと言い訳しながらお代わりをした。娘さんは一杯のご飯を三分の一ほど残してしまった。
この日は一日佐渡観光。美しい海岸線とともに歴史の島でもある。流人として歴史上の人物だけでも、順徳天皇・日野資朝・世阿弥・日蓮等々。そしてなによりも江戸幕府を支えた財源金山がある。廃坑になった今も、精巧な人形を五十七体も使って、観光に一役かっている。思ったよりスリルも情緒もなかったタライ舟も体験して、帰りは車なみの時速八十キロで走るジェットフォイルで、小木港から直江津港まで六十分。その乗船前、またサイフのおじいさんがいない。同じグループで来た人が「また○○だあ!」と捜しに立ち上がった。
旅も終わりに近づくと時間が押せ押せになって添乗員は緊張する。最後の中央道・双葉ドライブインを四時十分発だと何度も念を押して、トイレ休憩した。ところが出発時刻になってまたサイフのおじいさんが足りない。みなでワイワイ言っている中、あつあつのやきそばを両手に持って戻ってきた。やっと車が出たのは四時二十五分だった。みんなのおじいさんに対する冷たい視線の中で、娘さんは
「イカそうめんばっかりで、やきそばだって食べたくなるよ」
と、けろりと言った。私には娘さんの言葉も気持ちまでしっかり分かった。
《終》
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