【エッセイ】最後のお仕事を終えたら
今年の三月で、三十年以上続けた小さな仕事が終わった。もっとがっくりするのかと思ったが、ほっとした気持ちの方が強かった。
大坂造幣局の桜の通り抜けや、愛知万博、東北三大祭りなど体験し、これまでの人生で一番ゆったり過ごせたような気がする。
今年は国勢調査の年である。過去何回か経験があるので、市役所から調査員をやってくれないかと依頼があった。
「もう卒業したいですよ」
などと言いながら
「じゃ、最後の仕事として、もう一回だけやらせていただきます」
お世辞と分かっていても、慣れた人にやってもらえれば安心だからと言われて、引き受けてしまった。
私は昭和三十三年、二十二歳で結婚した。夫がローカル紙の記者だったこともあって、報道関係各社の若い記者がワイワイわが家に出入りしていた。
「この調査やってもらえないかなぁ」
言いにくそうに真剣な顔で頼まれたのが家族計画に対する大手新聞社の調査だった。決められた地域の三十代の女性を拾い出し、七分の一抽出して、アンケートに記入し、封入して提出してもらうというものだった。
いつも大口叩いているくせに、当時の若い男性記者は性を真正面から取り上げたアンケートは、凄い負担だったのだろう。今ではドラマの中での高校生の会話で
「コンドーさんをお連れしなきゃ駄目だよ」
というのがあって驚いた。隔世の感がある。
「報酬の他にプラスアルファ出してもいい」
というのでお金につられて引き受けた。本人に会って説明し、後日受け取りに行った。興味深くもあったので、その後も世論調査のアルバイトを何回かさせてもらった。
その年は三十五年の国勢調査の年であった。その頃は、この調査は区長さんや、地区の顔役で年寄の仕事らしかった。
当時住んでいた地域の区長さんが急に亡くなった。慌てた市役所の係の人が、私が新聞社の調査をやったことがあるのを聞いたらしく、夜になって訪ねてきたのである。
その頃の説明会は夜で、神社の参集所でやった。宴会場のような大広間に、一面に座布団が並べられていたのを今も覚えている。
やがていかめしい感じのおじいさんがぞろぞろと現れて、あっという間に満席となった。女性は他にはいなかったような気がする。説明会のことはすっかり忘れたが、大きな任命書と万年筆を頂いた。
国勢調査は五年ごとである。次の時は長男を背負ってやり、その次の時は二人の子を背負ったり手を引いたりしてやった。
下の子が学校に行くようになって、他の継続調査をしたり、他の仕事もしたりして追い駆けられるように年を重ねてきてしまった。
思えば私たちの世代は世の中に翻弄され続けて生きてきた。国民学校三年で終戦、六年生の時は六十人のクラスが五組まであった。
高校時代には全国的にも有名になった「村八分事件」が私たちの学校で起きた。
その時、一年上の石川さつきさんという人が昔から村で平然と行われていた選挙違反を告発したのだった。のちに映画化され、私も見つかったら退学を覚悟で友人たちとエキストラとして参加した。
戦後の混乱もやや治まり、若者たちの間では文化運動が盛んになった。絵を描くグループ、歌の会、演劇の会、その中で友だち結婚が多かった。私自身もその中の一人だ。
平和のお陰で右肩上がりの高度成長があり、日本人はかなり豊かになった。そしてバブル崩壊となった。
それでもさまざまな指標を基に国連開発計画が発表した国民生活の豊かさを示す二〇〇五年度版「人間開発報告書」によると日本は十一位だそうだ。去年までは五年連続九位だったという。
ますますの高齢化と少子化。今度の国勢調査では、予想を二年も早めて人口は減ることだろう。
このお仕事が終われば、まさに人生最後のステージになるだろう。四月からのように旅行やのんびりばかりもしていられない。
健康のため続けていたヨガと時々の水泳は続けよう。老人二人の暮らしは穏やかではあるが大声を出すことはまずない。初体験だがコーラスの会にでも入ってみたい。夫婦ともよく利用させてもらっている図書館でのボランティアにも参加してみたい。そしてこの文章教室も続けたいものだ。今からわくわくするようでもあり、少し不安でもある。
老いの暮らしも案外悪いもんじゃないと、後からくる若者たちに希望を持てるような老後を送りたいものだ。
それにつけても、この仕事を引き締めて取りかからなければならないと思う。
《終》
※本サイトの作品は、にほんブログ村「現代小説」ランキング、人気ブログランキング「現代小説」に参加しています。宜しければ、クリックお願い致します。

