【エッセイ】一年単位
三月の声を聞くと、陽の光が春色になる。来月はもう四月。そうすると私は自分でも納得したくないような六十八歳になる。
ローカル紙で、この地方で活躍する人物≠取り上げて紹介する欄がある。そこに文芸サークルを主宰する女性が登場した。同好の士を募っているという。私も本好きなので興味を持った。
新聞を見たと電話してみると、次の例会に短文を書いて持ってきてみませんかと誘われた。会は月二回で朝十時から午後四時までの長丁場だそうだ。
その日、会場の黒板にいきなり連絡先を書かされ、自己紹介のスピーチ、持っていった作文の朗読をさせられた。人前で朗読したのは何十年振りだったろう。そのインパクトはいまだにまざまざと思い出されるほどである。しかし、それが病みつきになりそうな心地よさでもあったのは、自分でも意外だった。
会員は女ばかり十人くらいで、ほとんど年上とお見受けした。代表がただ一人私より十歳年下だった。
昼になるとそれぞれお握りを取り出し、かぼちゃの煮物や、夕べの天ぷらの残り、デザートまで出てくる。私は思いがけないお裾分けで満腹したこともあって、この会に一日で溶け込んでしまった。
会場は街からかなり離れた郊外の公民館だった。私を含むやや古手の三人が車を運転してきていて、他はご主人の送り迎えとその便乗だった。
参加して三回目だったか見知らぬ人がいた。「みなさんご無沙汰しておりました。やっと出てくる気になれて……一本書いてきました」とあいさつしたMさんは二人暮しだったご主人を、入浴中の心臓麻痺で急に亡くされ一年も休んでいたとのことだった。
「読みますね」
と自分に言い聞かせるように言って読み出したのに、すぐ言葉にならず絶句してしまった。隣に座っていたIさんが代わって呼んだ。
「長湯ねぇ」といいながら二階から下りてからの驚きから、東京に住む二人の息子さん夫婦とやっと新盆を送り、話し合いの末、一人で住む決心をしていくまでの経過が書かれていた。
若い頃、小学校の教員をしていたというMさんが泣き出した時は、どうなるのかと思ったが、Iさんの読む自分の文章を目を瞑ってじっと聞いていたのが印象的だった。
「今日、思い切って出てきて本当によかった。これからもよろしくね」
来た時と別人のようになって帰って行ったMさんを見て文章の不思議な力≠煌エじた。
一回の時間の長いこともあって、お喋りも多く人間関係も深い付き合いとなった。お互い馴れは甘えにつながり、易きに流れがちだ。
それに文章を書こうという人は、一見シャイな面と、顕示欲の強い両面を持った複雑な性格の人が多い。これは自分を含めてだが……。アドバイスのつもりで書いた文章が、いつの間にか自分の作品にされ発表されたり、参考にと回し読みに貸した本も三冊行方不明。
私がこの会に所属した七年間に、みんな七年歳をとった。そして一人は突然に、一人は長い看病の末、夫を亡くした。もう一人も重い病で入院した。そのたびに私はアッシー君としての肩の荷も重くなった。
一番若い代表も、持病のリウマチが悪化して、一年に二回も手術をした。そんな不安からか会計をやってくれという電話があった。
そんな時、最初からの四人のメンバーの一人で副代表のようなTさんが、蜘蛛膜下出血で亡くなった。みんな唖然としたが、一番驚いたのは当人であろう。元気の塊のみたいな人だった。私は密かに野牛≠ニいうあだ名を付けていたくらいだし、私とは特に気が合った。
長い間、無償で指導して下さっていたのは、もとはTさんの同郷のよしみからだったようだ。Tさんの追悼号を出した時、先生も遠方から来て下さるというので、一泊の勉強会をすることになった。八十を目の前の先生のこと、長旅の疲れと、悲しみの酒が過ぎて次の日近くの病院で点滴を受ける始末である。
先生を病院に残し、宿舎の支払いに預かったお金を持って駈けつけた。そこでこれからのことを話し合うはずが、突然十五年目の解散となってしまった。私はほっとした。
どんどん湿気を含んだ空気が、飽和状態になって、水滴に変化したのに似ていた。
六十五歳を過ぎると一年は重い。確実に体力は落ち、気力は失せていく。私にとってこの七年間は貴重ないい年月だった。これからは一年単位で大切に生きていこう。
《終》
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