【エッセイ】雲の峰の周辺
『文筺(ふみかご)』という、文芸サークルで出している小冊子の巻頭をくじ引きで順番に書くことになった。私は七月に決まった。歳時記を出してみると入道雲を雲の峰ともいうそうだ。これはちょっとかっこいい。題だけすぐ決まった。後から考えるとこの題にこだわり過ぎた。入道雲から連想するもの……逞しさ、若さ……、若いころの夫との出会いを現在と対比するように書いた。
すらすらと書いてしまったわりには、満足して読み返していると、夫が出先から帰ってきた。「どう?」無理に読ませると「こっ恥ずかしい!」と突っ返してよこした。私は照れてるなと気にも止めなかった。
合評会の日、「勝手にやってくれっ!て感じだな」というのが第一声だった。出会いが実って結婚し、子どもたちも自立し、恋・情・肉親・空気と変化していった結婚生活も大過なく、後は煙さと笑い合う初老の夫婦の話なんか、面白くもなんともないという。同年代で二、三年前に夫を亡くしたというAさんが「幸せルンルンの話なんか聞きたくないよ。隣で蔵が建てば、こっちじゃ腹が立つというからね」とつぶやいた。グサリとだめ押しされた。
私が雲の峰にちなんで自分の人生を書くなら、世相も実人生も、何かに突き動かされるように夢中で生きていたころを書くべきだった。
当時私は二十二歳、小さなローカル紙に勤める夫とのゼロからの出発だった。どうやら泳ぎきった現在思い出せば結構面白かったが、当時は必死に生きていた。
予算のない新聞社のため、記者の女房の私が市議選速報で一日中車に乗り、各候補者の得票を流したこともあった。しかも無償である。
夫の給料は安くて、私も働きたかった。しかし二人の子どもがいて時間が自由になる女の職場などなかった。やがて高度成長の兆しが見えはじめて、人々が観光旅行に出始める時期だった。私は近くの観光地、白糸の滝の売店に土産物を卸す仕事を思いついた。ドライブ向けの富士山一周の絵入りハンカチや、富士の巻狩り伝説にちなんだ暖簾など、自分で企画したものが商品となるのはぞくぞくするほど楽しかった。絵ごころもないわたしが暖簾の下絵を描いたりした。社長兼小使いである。観光客は旅行にいった証しのように土産品を驚くほど買った。
そのころわが家に遊びに来ていた役所の人が、出張先の浜松の寿司屋に私が描いた暖簾が調理場の入り口に懸けられていたという話を聞いて、一人でにんまりした。人間というものは自分の能力を十二分に発揮したとき、一番幸せなんだと実感した。
夫がこの会社の定年退職一号となったとき、あの風前の灯のようなときもあった会社がずっと厚生年金に加入していたことは本当に有り難かった。禍福は糾える縄の如しである。自分や身内の話は書きにくい。無意識に美化したり、正当化している。奥歯に物のはさまった書き方も読み手に感動は与えないことがよく分かった。
しかし、あれを書いてよかったこともあった。盆に帰省した二人の息子に二部取っておいた小冊子を見せた。親子でこんな話をしたことはなかった。長男は「へぇ─、知らなかった」といい、次男は「父さんち、やるじゃん」と、それぞれ持ち帰った。どこか年相応に世間になじめないところを持ち、いい年をして青春の尻尾を引きずっている両親が彼等なりに納得できたようだった。
冊子は市立図書館に十部ずつ置いている。そこでもらったという友人から思いがけない手紙がきた。もう二、三年も会っていない人からの便りもうれしいものだ。
もうひとり、古い観光土産屋さん当時の知人からも「ご主人との出会いすてき」というはがきをもいただいた。夏の観光シーズンが終わったら何年振りかで会いましょうと返事を出した。バブルの崩壊の大分前に、国内の観光ブームも去って、私もその手前ぐらいで手を引いて普通のおばさんに戻った。いろいろのことのあった半生だが、もとの二人に戻ったここからが本当の人生のような気がする。
《終》
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