【エッセイ】秘 密
戦争も末期のころ、私たち一家は上野村に十か月ほど住んでいたことがある。
当時の村ではメインストリートになる川に面した、杉皮ぶき屋根の小さな家であった。玄関の入り口に、工業用の大きなミシンがでんと場所を取っていた記憶がある。
二十四歳の父が結婚と同時に開業した洋品店は、衣料品の戦時統制で年の若い順に強制的に廃業させられ、実家のある田舎で仕立屋を細々とやっていたのである。
「やぁ、こりゃ温かいぞ!」
にこにこ顔の兵隊さんは、仕立代のほかにカルピスを一本ドンと置いて帰って行った。
「あるとこにはあるんだね」
母は声をひそめて父を見上げながら、前掛けの下に隠した。
村の学校に兵隊さんが駐屯していた。どうして知ったのか乗馬ズボンを作ってくれと軍隊毛布を持ってきた。若いころ東京の競馬場の近くで仕立職人をしていた父の乗馬ズボンは、格好がいいと評判だったのだ。
その夜、五年生を頭に五人の兄弟姉妹は車座になって正座し、固唾をのんで母の手元を見つめた。母は家の前の川で冷やしておいたヤカンの湯ざましを、コップにつぎ分けたカルピスに順々についで入った。こんな時、いつもはない父母の分も数に入っていた。
カルピスは甘くて、酸っぱくて、こんなにおいしいものが世の中にあるのかと思った。戦時中の国民学校二年生には初めての味だった。
その後も二、三度味わったような気がしたが、初めてのときのような感動はなかった。親に口止めされたわけではなかったが、私は親しい友だちにもカルピスのことは言わなかった。言わないほうがいいような気がしたのだった。
《終》
※本サイトの作品は、にほんブログ村「現代小説」ランキング、人気ブログランキング「現代小説」に参加しています。宜しければ、クリックお願い致します。

