やさしいあなたに、そうでないあなたにも。
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名 前/maruzoh こと 熱田丸蔵
出没地/和光、富士宮、麹町
誕生日/9月7日 乙女座
好きなもの/こども、詩、絵、童話、小説、音楽、お酒、美味しいもの、犬、野球、寺、神社、花、ギター、家族
とても影響を受けた人/灰谷健次郎さん、鹿島和夫さん、ドン・カ・ジョンさん、かしわ哲さん、PANTAさん、ジョン・ライドンさん、小澤征爾さん、帚木蓬生さん
maruzohより一言/運も、人も、夢だって、欲しがり過ぎると逃げてっちゃう。幸せは、み〜んな天下のマワリモノ。みんなで仲良く分け合おう♪

2013年03月21日

【エッセイ】曽我八幡宮


【エッセイ】曽我八幡宮 


 最近、「村おこし」という言葉が流行語になった。郷土史同好会に入っている夫について、取材しているうちに、二百六十年の前の郷土にも、今どきの村おこし顔負けの事実があったことを知って、頼もしがったり、驚いたりした。これだから身近な歴史は面白い。
 富士宮市上井出、上原にある曽我八幡宮の宮守を代々勤めている木本家に「木本家文書」という古文書が伝わっている。それによると、享保十六年(一七三一)江戸本所の回向院の境内で、曽我八幡宮の祭神、応神天皇、曽我五郎・十郎と十郎の愛人虎御前の木像の出開帳を許可してほしいと寺社奉行に願い出た記録が残さている。
「乍恐以書付奉上候」(恐れながら書付を持って願いあげ奉り候)と書き出し、台風で社殿が崩壊してしまったが、村民も作物が全滅でとうてい再建できない、神社の宝物を出開帳して、その収益で社殿の修復をしたいとの主旨である。
 富士宮市は、曽我兄弟時致二十歳、十郎祐成二十二歳、兄弟の有名な仇討ちの現場である。富士山を背景に鎌倉幕府を開いた源頼朝が軍事力のデモンストレーションともいえる巻狩の当日、衆人環視の中での出来事である。苦節十八年、親の敵を討った劇的な事件の結末は、若い命を散らして終わった。今でこそ、親の敵といえども個人的に殺すなど到底考えられないが、当時のモラルでは美談であった。
 江戸時代になると、その勇気、忍耐、孝養はたたえられ、首尾よく本懐を遂げて縁起がいいということで、歌舞伎では正月に「曽我物」が必ず上演されて、兄弟の仇討ちはさらに物語となって大衆に浸透した。曽我物はいまでいう大ブームで、はては江戸庶民が曽我兄弟の、特に五郎を御霊と崇め、信仰的見方さえしていたという。そこに目を付けたのが、草深い田舎に住む宮守と氏子たち。御神体を見世物にして入場料や賽銭を集め、台風で壊れた社殿を再建しようと思いついた。その上、村の娘を連れて行き、神楽と小神楽で人寄せしようと、一月廿日の日付で寺社奉行に免許を願い出ている。鳴物入りである。
 出開帳のため建てられた小屋の絵図も残っていて、およそ六十坪(二百平方メートル)。二月一日から四月一日までの会期を、三月十六日になって、四月十六日までに十五日間の延長願いを出している。それが許可されたかどうかは、文書に残っていないので不明だが、入りは相当よかったらしい。
 同じ頃の「一札之事」という文書には、「開帳に付、入用金十八両は二月五日に相済申候」とあり、十八両を借金して始めたものと思われ、それも二月五日には返せたので、延期はお金が足りないからではなかった。貸したのは御家具屋新兵衛と駿河平左衛門とあり、借主は駿河弥左ェ門とある。宮守が木本弥左衛門だから同一人物であろう。
 曽我八幡宮に行ってみた。国道から一本入った農道からさらにちょっと入った所に、村の鎮守さまという風情で鎮座していた。初冬の日を受けて、平和な村の風景に過不足なく溶け込んでいる。小さな森を背負い、境内も車の方向転換がやっとだった。
 社伝によると悲劇な最期を遂げた若い兄弟の死を惜しんで、源頼朝が建久八年(一一九七)に建立し、徳川の世まで歴代将軍により社領を安堵されたとある。今も村人に「曽我さん」と親しまれ、祭りは毎年続いているという。宮守さんの家も健在で、庭の広い農家だった。
 この地方には曽我兄弟にまつわる神社や寺が多い。この八幡宮の話は当時有名だったのか、四十六年後の安永六年(一七七七)富士市厚原の曽我八幡宮から台風後の修理のため寺社奉行に出した出開帳願いが神社に残されている。さらに九年後の福泉寺(現・曽我寺)からも大坂道頓堀の法善寺境内での出開帳願いが残っている。しかし、そのときはブームが去ったのか、大坂という土地柄のため上手くいかず、住職は客死し、そのどさくさで寺宝は散逸してしまったという。
 曽我寺にも行ってみたが、兄弟の木像は極彩色の小さな坐像で、寺は無人寺になっていた。この寺は、今も近くに石柱の道しるべが残っているが、当時は東海道を通る人が寄り道をして参拝したほど有名であったという。墓だけはしっかり大きなものがあった。
 しかし、曽我兄弟の墓といわれるものは全国に十以上もあるという。私も、上井出・箱根・小田原・富士・伊東と五つ見ている。
 ひとつのものが長く残るというだけでも、実は大変なのであり、時代の波を乗り越え、運・不運をかき分けて、努力と、決断と、そしてある種のしたたかさが必要なことがよく分かった。

《終》


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posted by maruzoh at 08:09| Comment(0) | ◆澤田節子作品集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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