【エッセイ】曲げわっぱ
「ファックスを受信します。受話器を置いてください」というキカイの声がして、白い紙がじゅるじゅると出てきた。趣味の文章サークルの会員からの原稿である。
戦後間もない頃の料理教室の話しであった。その中に曲げわっぱの話が出てきて、思わず目を止めた。
近くにいた夫に「なつかしい話が出てくるわよ」と、手渡すと、あっという間に読んで「あんたには、恨みの曲げわっぱってわけだ」と返して寄こした。
戦後の何でも食べられるだけでいいという時代をやや脱して、田舎町にも料理学校ができ始めた。昭和三十年頃の二十歳の女の子には、まだまだ明治生まれの親の目は怖い存在だった。週一回の料理教室もいい外出の口実になった。
明日、料理教室があるという前夜、友人から電話があっていいワインを一本もらったから、一晩語り明かさないかと誘いがあった。友人は当時の電電公社に勤めていて独身者用の女子寮に住んでいた。
世相は米ソ対立のバランスの前に危うく立っている時で、血気の多い若者にはぬるま湯の中のような生活は、物足らなかった。このまま友人の寮へ向かい静岡駅から電話で事後承諾ということにすればいいとたかをくくった。
私の通う料理学校は城山にあった。出来上がった料理は下に少し深い洋皿、その上に大きな方のわっぱ、その上に浅い皿を置いて、さらにその上にやや小さな入れこになっているわっぱを置き、もう一枚皿を重ね、それを風呂敷に包んで吊り下げて、家に持って帰るのであった。それにしてもこの不安定な持ち物には困ってしまった。
もしあの頃に今あるような汁も漏れない密閉容器が出回っていたら、当然その夜のつまみになっただろう。しかし、当時の電車はすごく混んでいて立つのがやっとだったのである。静岡まで持参することはとても考えられられなかった。
すぐ近くにローカル紙のG社があった。まだ活版印刷で、目だけギラギラした欠食児童のような若い記者がごろごろしていた。私はその中の一番ペーペーの記者と少し前、洋裁学校の二階で行われた著名な映画監督を囲む会で知り合ったばかりだった。(そうだ、あの人にあげちゃおう)電車の時間も迫っていたので押しかけるように置いて、厄逃れでもしたようにほっとして、駅に急いだ。
二、三日して渡した時の伝言通り洋裁学校に、空の皿が届けられ、曲げわっぱの中に画用紙を四つに折った手紙が入っていた。最後に「せつさんへ」と、記事用の太い鉛筆のへたうまの字で、とてもおいしかったと、さらりと書かれていた。
「あの頃、何を食べても美味しかったんでしょう」というと、夫は「味はよく分からなかった。ほとんど俺の口に入らなかったからね。先輩がこれをもらっただけでお前は十分だなんて言って、寄ってたかって食っちゃった」という。
今思えばその夜、昔の病院の入院室のような女子寮の一室で空けたワインはただ珍しいだけだった。私は、その時初めてお酒には強くない体質だと知ったのだった。
世の中が自分の目でおぼろげに見え始めてくる頃、人生はもう頂点を越えて下り坂になっている。あれから三年くらい付き合って結婚した。四十年以上経ったいま思えば、あの手紙も手元にあったスケッチブックを破いて、ついでに走り書きしたものだろう。本人は全然覚えていないという。
錯覚や、誤解や、偶然に操られながら時代の風にも吹かれて揺れながら、よく無事今日を迎えられたと思うことがある。運よくあと十年か十五年、平均寿命まで生きられて、最後にトントンと棺の蓋をされなければ、恨みの曲げわっぱだったか、恵みの曲げわっぱだったか分からない。
《終》
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