【エッセイ】辣 韮(らっきょう)
隣のS町に、ユー・トリオという温泉施設がある。ふるさと創生資金を使って掘り当てた鉱泉で、町をあげての一大事業だった。それが赤字つづきで、現在は第三セクターになって存続している。
以来、サービスもきめ細かくなり、五人以上まとまれば、車で送迎してくれる。過疎の村になってしまった周辺農家の農作物の即売や、食堂の昼食も地の物を生かした手作りで安くておいしい。まさに地産地消だ。
ご近所やその知り合いなど誘い合わせ、女ばかり十五、六人で出掛けた。温泉のほかに温水プールや露天風呂もあり、各々がマイペースで一日楽しめる。
その日、到着するとレジの近くにある農産物の並べられた辺りが賑わっている。覗いてみると泥付きの辣韮(らっきょう)の袋がずらりと並んでいた。五キロくらい入っていそうな大袋に三百円というシールが張ってある。
「安いねぇ」
「丁度よかった。近いうちに漬けようと思ってたんだよ。買っとこう」
お年寄りの会話に思わず前に出た。
「辣韮は時期が短いからねぇ、ある時買っとかないと漬けそこなうよ」
一緒に来た人たちも、荷物も置かず買い求め、名前を書いて帰りまで預かってもらっていた。私も慌てて二袋買った。山のようにあった大袋はまたたく間に売り切れた。
帰りの車で、辣韮の分重くなったねと笑い合うと、運転手は真顔で
「社長は、すぐ農家を駈け廻っていたよ」
と嬉しそうにいっていた。
次の日、朝起きると台所で変な臭いがする。辣韮である。
子供たちが自立して、夫との二人暮らしも二十年以上になると、漬け方も忘れてしまった。食べるだけ買った方が安いのである。
毎年たくさん漬けて、嫁いだ娘に送っているという人が、五、六人の聞き手を相手に、急ごしらえの漬け方講習会となった。私も傍にいって塩や酢、砂糖の分量をメモしてきた。
広げてみると、畑から引き抜いて、根元をばっさり切ったというだけのかなり雑な商品だった。そこが新鮮といえなくもないが、半分ぐらいゴミのようで、気が重くなった。
皮を剥いて上と下を切り落とし拵えるのは思っていたより大変な仕事だった。流しの前に立ち放しでいたら腰が痛くなり、途中で脚立を持ち出して、腰掛けて続けた。
それでも泥の塊のようなものの中から、真珠のような可愛いい辣韮の球が出てきて、ステンレスのボールに溜まっていくのは心弾む眺めだった。
黙々と手仕事をしていると、急に四十年も前に五十三歳で亡くなった母を思い出した。母は背中を丸めてよく泥つき辣韮を拵えていた。農家の次男だった父の実家から、泥つき辣韮やら、漬け菜、タクアン漬け用の干し大根などが、オート三輪で届いたからである。いま思うと、それは少し秘密めいた気配がした。家を継いだ長男の嫁が、弁当持ちで遠くの畑へ行った時などに、気心の知れた近所の青年が運んでいたようだ。家は洋品店をしていた。戦後まだ物の出回っていない頃のことで、母は青年に靴下やハンカチをお礼にしていた。
そして父方の祖母には、下着や絣のモンペ、足袋などを土産に持たせるのを忘れなかった。
その頃のことである。表は店なので、小学校の頃は裏口から帰った。すると、ちょうど母が辣韮の味みをしていた。大きな茶色の瓶の広い口から、太い針金を曲げて作った道具を入れて、二つ、三つずつ掬い上げるのだった。夕日に照らされて、少しきまり悪そうに笑っていた母の横顔を、いまでも思い出すことが出来る。私もしゃがみ込んで顔を見合わせながらカリカリ食べた。
母は少女がそのまま大人になってしまったようなところのある人だった。学芸会に私が出た時など、大家族の洗濯はどうしたのか小さな妹や弟まで連れて一番前に座っていた。
六人兄弟の、上から二番めの私が二十八歳の時だった。一番下の妹はまだ高校二年生だった。実の兄の手術の立会いに行って、自分が病院の廊下で倒れてそのまま亡くなってしまった。脳出血だった。
高度成長に入る前で時代も走っていたし、私も走っていた。もうほとんど思い出すこともなくなっていた母を、辣韮が急に思い出させてくれた。五月二十七日、あ、こんな季節だったんだと思いを深くした。
翌日、お花を買って夫と二人で墓参りをした。
大袋二つの辣韮は、大口の瓶の三分の一ほどになってしまい、教わった通りに漬けた。夏の終わり頃には食べられるだろうか。
《おわり》
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