【エッセイ】五重塔
「土地のもんでも、知ってる人は少なくなったなぁ」。草刈鎌で絡んだ蔓や、足場の悪い下草を払いながら進む後を、私たち夫婦は恐縮しながらやっと続いた。少し窪地になっている平らな所へ出た。積もった落ち葉を除けると、驚くほど大きな平らの石が現れた。表面はまだ濡れている。「これだったのか──」。「本当にあったのねぇ」。三度目の正直だった。やっと出会えた。一番初めに来たときは夏草が生い茂りとても手に負えなかった。次は秋に来てみたが徒労に終わった。そして今日。農閑期で近くの土木工事に出ていて昼食に帰宅するおじさんに聞いてみたのが幸運だった。
二年前の暑い日だった。江戸初期の民政代官井出志摩守の墓が、家から車で十五分ぐらいの北山本門寺にあると聞いて訪ねた。郷土史に興味のある夫に無理に誘われたのだった。他人の墓地に一人で行くのはどうも……ということらしい。その時、墓掃除にきていた土地の古老から「このお寺は、昔はたいしたもんだったんだよ。もっとえらい人の墓もあるよ」と案内されたのが、江戸幕府三代将軍徳川家光の側室阿楽の方とその一族の墓だった。人の背丈ほどもある五輪塔が十基
ほど、ひっそりと並んで苔むしていた。「いい五重塔もあってよ」という。これはその五重塔の礎石である。
その石は現在の、寺の前の道路を隔てて、さらに二百メートルぐらい離れた森の中にあった。当時はここも境内だったのだろうか、驚くほどの広さである。私は平たい石の上に立って十丈九尺(約三十二メートル)もあったという全国的にも屈指の巧緻精妙だったという塔を想像してみた。九輪をいただいた美しい屋根は森を突き抜けて、早くから開けたのどかな村のどこからも眺められたであろう。農作業の手を休めて見上げる富士山と五重塔は村人たちの心の拠りどころになっていたのではなかろうか。
かの有名な春日局に見出され、三代将軍家光の即室になった阿楽が懐妊した時、信仰の厚かった母の増山氏は本門寺十四世日優上人に安産祈願を願った。上人は江戸城にこもって十七日間祈った結果、無事男子出産。用事の死亡率の高い時代のこと、阿楽とその母増山氏は日優上人に深く帰依、三門と総門を建立した。
子供の遅かった家光が他界し、四代家綱となった時はまだ十一歳だったという。将軍の外戚となった一族は目覚しい栄達。弟は一万石の小ながら大名にまで取り立てられた。その一族の墓があの見馴れない五輪塔群である。さらに増山氏が三百両を出し発願主となって五重塔が建立された。塔は貞享元年(一六八四)から元文五年(一七四〇)まで六十四年かけて完成したといわれる。
時代は移り、天保八年(一八三七)天保の飢饉の時、この村でも百姓一揆があり、その時の集合場所がこの五重塔だったという記述が『北山村誌』に残っている。困窮した村人は心まで荒み屋根の銅板をはがしてしまったと寺の伝承縁起に書き残されている。
明治四十年には屋根の銅板はほとんどなく雨漏りがひどく、寺の執事が当時の大宮警察署に盗難届けを出している始末。やっと修理がかなった明治四十三年十二月十五日、大工たちがあまりの寒さに焚き火した。その火が強い突風にあおられ鉋屑に燃え移りあれよあれよという間に五重塔は全焼、さらに本門寺沢を隔てた本堂・坊も類焼してしまったという。六十四年かけて完成した塔は百七十年の命脈だった。
見上げると木々の梢の先に、青い丸い空が見える。濡れたすべすべの石も風に当たり白く変色してきた。四隅に置かれたと思うからあと三個近くに埋もれているのか、どこかの屋敷の敷石にでもなっているのか──。
正面とおぼしき方向に下りていくと、石段の跡らしい石がいくつか転がっていた。その半ばに火袋を失った石灯篭一基が半分埋もれて立っている。銘文は宝暦五年十月と読めた。施主当国天間村 鈴木平左衛門元隅とある。天間は隣の富士市にある地名だから、この寺の盛りの時期を彷彿とさせた。
寺にも、塔にも隆盛期や、じっと耐えている時期、そして崩壊期がある。運・不運もある。自分の生きてきた道や、これからを思い感無量になったひとときだった。
《終》
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