【エッセイ】新しい自分をみつけて
小さな文章同好会でのことでした。私は自分で書いた「母」という文を読みながら、急にこみ上げるものがあって、うっと詰まってしまいました。そのまま続けたら声を上げて泣き出しそうな衝動に駆られて、ふっと口をつぐんでしまったのです。まったく自分でも思いがけないことでした。読み終わって照れ隠しに「いい供養になったかな」と言ったのですが。
三十年以上前になくなった母を、最近はほとんど思い出したことさえないし、あの世など信じられない私ですが、やはり母が心のどこかにいつもあったのでしょうか。人間を六十年以上やってきて、知り尽していると思っていた自分の中にも、分からない部分があるという人間というものの不思議を思ったのでした。
この会の特色は共同助言といって自作を皆の前で朗読することですが、私にとって実はなり画期的なことでした。つまり自作自演の一人芝居を演ずることのように思えたのです。話すということは放つに通じます。人前で改まって声を出すだけでも、初めての時は大決心がいりました。
昔、学校には「よく学べ、よく遊べ」という標語がありました。これは一つのことをしたら反対のことをしてバランスのとれた人格を作れということでしょう。山へ行ったら海へ行け、町へ住んでいたら田舎へ行ってみる、スポーツをたくさんしたら、座禅を組んでみる。永年主婦につかりっきりの私には、知らぬ間にとても身体と心にいいことでもあったような気がします。別の私が見えてきました。
この頃私は自分が少し変わりつつあるのを感じます。若い頃の自分に戻っているような気分なのです。でもそれは若い頃の突き動かされるような活気と違い、もっと安定感のある「生き応え」または「生き甲斐」みたいなものです。人間は生き甲斐があれば生きていけます。今よりもっと貧しく忙しかった時代(とき)にも、子どもたちの笑顔を見れば満たされたものでした。
夫が定年を迎え、子どもたちが自立した今、もうしっかり奥さんや、優しいお母さんの演技はやめて、本来の自分に返っていいのです。必要とされ求められている時は、それはそれで充実していたのですが、事態が変わったら自分も変わらなければ満たされません。
そんな時、フィーリングの合いそうな仲間に出会い、だれの奥さんとか、だれのお母さんではなく、自分自身の楽しみのためだけの時間が持てたことはとても嬉しいことでした。
自分のことを、自分で受け止める。これは人間としての基本です。同じ文章でも人によって感じ方はさまざまです。自分の思いがそのまま伝わらないばかりか、書き足りなくて反対にとられることすらあります。厳しい批評も平常心で受け止め、反論があれば、しっかり分かるように話して反論する。それは精神的自立に大いに役立ち、心の容積が広がったような気がします。私はこういうことがこんなに好きだったんだと大発見でした。六十代は人生の収穫の時だといいます。なんだかこれからが楽しみになってきました。
近い将来、急に長くなった老後が、どどっとやってきます。ひとりで安定して暮らせる人は、二人でも、十人でも巧く暮らせる人です。精神的・自立と自律は老後に一番大切なことだと思うのです。
それより何より自分が認められること、つまりいくつになっても人間はほめられたいのです。そして、ほめられれば、自信につながり成長して行きます。人は死ぬまで精神的に成長し続けることのできる唯一の動物なのですから。
人生は自分探しの長い旅のような気がします。私はこの頃、心の贅肉をどんどん落として、すっきりすがすがしい気分です。
《終》
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