【エッセイ】人間ジュークBOX
「あ、この人。『第三の男』の人じゃない?」
「あ、そうだ、あの人だよ」
夫は歯ブラシを銜えたまま、朝のテレビに見入った。画面は名古屋市の大須観音前広場の、お祭の様子を映していた。ローカル局のアナウンサーのインタビューを受けているのは、まさしく私のリクエストに応えて、『第三の男』と『月光値千金』をトランペットで吹いてくれた、あの人だった。
三年ほど前のことである。押されるように夫と、静岡駅の改札口を出るとコンコースは人で溢れていた。その日は、ようやく定着した大道芸ワールド・カップの最終日だった。
デパートで買い物をして外に出ると、弾けるような『聖者の行進』に迎えられた。
「トランペットよねえ」
「珍しい、ナマだねえ」
イベントの最終日であり、日曜日と重なって街は活気付いている。人々の雑踏の上を、生演奏のトランペットは高く低く流れていった。それは場違いのようでもあり、外国人も参加した大道芸には、お似合いのようにも思えた。
そして目の前の舞台に驚いた。道端に「人間ジュークBOX」と書かれた昔の電話ボックスのようなものが立っているではないか。色あせた緑色で、人が立って顔が出る辺りに、六〇センチ四方くらいの窓がある。その窓から演奏者の顔が見えるようになっているのである。
一曲終わると、タンバリンをジャラジャラ鳴らしてベニヤ板の四角い小窓がバタンと閉まった。すると、すかさず正面で腕組みをして聞いていた青年が窓の横にある穴にコインを入れた。一曲二百円──と書かれた穴の下に伝言口がある。そこに何か言うと、すぐ勢いのいい『トルコ・マーチ』が始まった。
小窓の下には画用紙に一から九十二番まで番号と曲名がマジックで手書きされていた。アニメソングや歌謡曲、ジャズやシャンソン、古い映画音楽まで実に幅広い。
「私もやってみようかな」
「懐かしいのがいいよ」
『トルコマーチ』が終わるのを待って前へ出た。
「『十六番・第三の男』」
小窓が開いて黒の帽子に黒の蝶ネクタイ、白シャツの男の顔が現れた。六十半ばであろうか。ちょっと笑って演奏を始めた。この曲に誘われてエンジのコートの初老の婦人が並んで聞きいった。一緒に盛大に拍手した。
「じゃ、私も──」とその婦人が前に出た。
「何リクエストしました?」と聞くと
「『慕情』若いころ、去年亡くなった夫と観たんですよ、この映画」
こんな曲さえ即暗譜で吹ける人は、どんな人生を送ってきた人だろうと思った。
今朝の画面では、折りたたみ式であろうあの緑色のボックスは、黄色になっていた。そして男の人も三年分、歳とって見えた。
《終》
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