【エッセイ】まさいのち
ここに二、三日すっかり秋めいて日暮れが早くなった。日が落ちると急に冷え込んでくる。定年後十年以上もたつと、新老人の二人暮しもすっかり板についてきた。
夕食の買い物中、少し張り込んですき焼きにしようと思いついた。焼き豆腐をかごに入れながら「おかずに詰まれば焼き豆腐、芝居に詰まれば忠臣蔵」と言っていた吉田のおじさんを、ふと懐かしく思いだした。
終戦からまだ三年目だった。疎開してきた人たちがぼつぼつ都会に帰り始めた。小学六年生の私たちは六十人のクラスが五クラスもあり、世の中すべてがまだ混沌としていた。
仲良しになったえっちゃんも疎開組だった。おとうさんは銀行員とかで単身東京に残り、時々帰ってきた。留守中はおかあさんと子どもたちだけなので、遊びに行きやすかった。
えっちゃんの家は車の通らない裏通りのしもた屋で、家の前に小川が流れていた。二メートルくらいの幅の道をはさんで、吉田のおじさんの洋服屋があった。洋服屋といっても店はない。道に面した一間窓の下に畳一枚ほどの板の台を置いて仕事場にしている職人だった。
天気さえよければいつも窓を開け、ラジオを小さい音でかけて、台の前に座り仕事をしている。天井から躾糸(しつけいと)の束を吊るしてあり、おじさんは時々手を伸ばして糸を引き抜いて使う。重たい炭火のアイロンでジューっと折り目をつけたりする。背広の前身頃にきれいに八刺しする指は女のように細かった。
えっちゃんを待っている間、私は窓に肘をついておじさんの手元を見ているのが好きだった。
「面白いかい?」
「うん、男なのに器用なんだね、おじさん」
「芸は身を助けるってね。手に職さえありやあ、いつでもどこでも食いっぱぐれないから」
おじさんは子どもの私に大人に話すような言い方をしてくれた。
えっちゃんが出てきても二人で見ていることもあった。
「若い美人さんらに見られてると仕事がはかどるなあ」
ほんとうは邪魔だったろうにおじさんはいつも愛想のいい言葉をかけてくれた。
戦後のことで仕事は次々にあるようだった。インバネスを潰して背広にするとか、今でいうリフォームが多かったようだ。
「遅れるよ」
と、えっちゃんは自分が待たせたのも忘れて先に歩き出した。
「あの人ら、旅の役者だからあんまり親しくなっちゃ駄目だって、お母さんが言っていた」
と、えっちゃんは声を潜めて耳打ちした。
雨上がりの夏の午後だった。ソフトの練習に行こうと、えっちゃんの家に回って行くと、またまた待たされた。洋服屋のおばさんが小川にしゃがみ込んで爪がけのついた足駄を洗っていた。洗い終わったおばさんは足駄を川岸に立て掛けてふうーと伸びをした。その時だった。左の二の腕に青インクそっくりの色で〞まさいのち≠ニ書いてあるのが見えた。あの時おばさんはいくつぐらいだったのか、青インクの文字は滲んでいるように見えた。私に気がついておばさんはすぐ浴衣の袖を下ろした。私はみて見ぬ振りをして、えっちゃんにそのことは言わなかった。
次の年の正月のことである。長女の私は郊外にある母の実家へ遣いに出された。戦後とはいえ、それなりの正月気分があったが、それも抜ける頃であった。帰りは暗くなりかけていた。
洋服屋の前を通りかかると、中から賑やかな歌声が聞こえる。笑い声も三味線の音も混じっている。雨戸がないので無造作に引かれた薄いカーテンの合わせ目から光が漏れていた。つい立ち止まって覗いて見て驚いた。十人くらいの男女が車座になって酒を飲んでいた。その中で、吉田のおばさんが三味線を弾き、おじさんが「かっぽれ」を踊っていた。手拭で鉢巻をし、着物の裾を尻ばしょりしてすくっと立ち姿はなかなか様になって粋であった。えっちゃんの言ったことは本当だったんだなと思った。
表玄関口の前を通るとき見たら表札に「吉田政吉」と書かれていた。「まさいのち」の「まさ」はまさきちのまさだったのだ。
おじさんとおばさんには子どもがなく、知らぬ間にどこかに引っ越していた。その家は今は学習塾になっている。
《おわり》
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