やさしいあなたに、そうでないあなたにも。
                        いろんなあなたに、こころの言葉。













   【maruzoh's profile】
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名 前/maruzoh こと 熱田丸蔵
出没地/和光、富士宮、麹町
誕生日/9月7日 乙女座
好きなもの/こども、詩、絵、童話、小説、音楽、お酒、美味しいもの、犬、野球、寺、神社、花、ギター、家族
とても影響を受けた人/灰谷健次郎さん、鹿島和夫さん、ドン・カ・ジョンさん、かしわ哲さん、PANTAさん、ジョン・ライドンさん、小澤征爾さん、帚木蓬生さん
maruzohより一言/運も、人も、夢だって、欲しがり過ぎると逃げてっちゃう。幸せは、み〜んな天下のマワリモノ。みんなで仲良く分け合おう♪

2012年10月28日

【エッセイ】母


【エッセイ】母 


 めっきり夏めいた日曜の午後だった。夕食の青菜を茹でていた。そのとき、あっ、母が突然逝った一報を受けた時もこの姿勢で、ここで青菜を茹でていたのだと、不意に思い出した。その日は、母の命日だったのだ。
「わたし、今からお墓参りにいってくるよ」
「おれも一緒に行こうか」と夫もいう。
 急に思い立って、近所の八百屋で菊の花を買い、二人で出掛けた。歩いて十分足らずのところにあるのに、子育てや仕事に追われ、彼岸や盆以外に墓参したことはなかった。
「まだ家に電話がなかったころ、太った身体で、はあはあ言いながら呼び出し電話を伝えに来てくれたっけね」
四十五年も前のことを夫は覚えていた。
 夕暮れの裏通りを近道して歩いて行くと、夕餉の仕度の音や、匂いがただよってきた。ふと、少しカン高い母の笑い声が聞こえてくるような気がした。

 私は母が亡くなった五十三歳をいつの間にか、とうに越してしまった。二人の息子たちが結婚して、それぞれ家を持ち、振り出しの夫婦にもどって、やっと父母の墓前で手を合わせて、母の短かすぎた人生に思いをめぐらす心のゆとりができたのかも知れない。
 以前、実家に立ち寄ったとき、私の知らなかった母の若いころの写真を見つけた。当時の流行りだったのか.大柄の長い袂の羽織を着て、まっすぐ前を見詰めるようにして座っている。細面のわりと整った顔立ちで、身内の欲目か樋口一葉に似ているようにも見えた。知らなかった母の一面を見たような気がして、その写真を無理にもらってきてしまった。
 子どものころ、母は嫁入りのとき持ってきたという鏡台を磨きながら
「句会で一席になったときの賞品だよ」
 と、自慢したことがあった。そのころの写真だろうか。

 母は、現在市内のI町になっている近郷の、農家の四人兄弟の二女として生まれた。兄は小学校の教員で、姉も尋常小学校でいつも副級長をしていたという人だが、母はおとなしく、平凡で目立たない子だったという。母が
 十七歳のとき、働き手の父親が畑仕事をしていて鍬の先で足を傷つけ、それがもとで破傷風になり、三日病んで急逝した。
 二年後、母は遠縁に当たる父と、引っ越し祝言という形式で式は行わず所帯を持った。そして仕立もやる洋品店を開業した。大きな五つ玉の算盤の裏に父の太い墨字で「昭和三年四月三日開業」と書いてあったのを覚えている。

 父は四歳のとき怪我をして一応治ったとはいえ、よく観ると片足を少し引いていたらしい。私も子どものころまで知らなかったほどだ。しかし、大人になって考えてみると、どちらかと言えば美人で、家の格式もまあまあの十九歳の娘が恋愛でもないのに、どうして足の悪い仕立手屋と一緒になったのか腑に落ちない。
姉と妹は大農家に嫁いだが、当時の嫁の立場ではどうにもならなかったのだろう。日銭の入る立場の母が、実家の母親にそっと小遣いを渡しているのを長女の私は何回かみたことがある。頼みの長男は若い教師の安月給で、「西の家」という屋号のある家の切り盛りは大変だったのだろうか。
 少女がそのまま大人になってしまったようなところのある母は子どもとも本気で喧嘩した。中学生だった兄と喧嘩して、自分が家を出て行くと箪笥の前に風呂敷を広げた光景を今でも覚えている。が、父との諍いを見たことは一度もない。
 戦後、学芸会が復活した五年生の時、私は選ばれてお母さん役をやることになった。すると母の方が夢中になり、実家まで衣装を借りに行った。当日は幼い弟や妹を連れて一番前で見ていた。

 経済事情が良くなると、わが家も活気を帯びてきた。店の商品の品数も増え、近郷の農家へ行商に行く人が出入りするようになり、卸しもするようになった。母は、食事時になると誰彼となく「食べて行きな」と、気さくに食事を出した。子どもの目にも食事時を狙ってくる嫌な人もいた。
 母の計算のない人の良さが長女の私を早熟なしっかり者にしてしまったような気がする。事実、六年生の私に母は、自分の下駄の見立てから、銀行への使いまでさせた。
 男女男女とよくも上手くと思うほど三つ迎えで六人の子どもを産んだ。父は働くのが趣味のような人だったが、母は口応え一つするでもなく、自然に折り合って夫唱婦随を通した。戦後教育を受けた生意気盛りの私は、女として、人間として、母はこれで満足なのだろうかと思ったこともある。

 やがて父の骨髄炎が再発して左足を大腿から切断した。それからの母は、文字通り父の杖となった。病気一つしなかった母は、脳いっ血のため五十三歳で、あっけなく他界した。それも実兄の病気見舞いに行った病院先の廊下で倒れたのだった。
 人によりかかって生きたい性格の女が、世間の矢面に立たされ、夫の杖となり、自己主張の強い六人の子どもたちに振り回されて、心身ともにすり減らしてしまったのではなかろうか。大人になってから娘の私は、母はもって生まれたいい ところをちっとも開花させずに、散ってしまった花のようだと思っていた。

 残された父は晩年半年くらい寝たきりになり、私は週二回、洗濯と話し相手に実家に通った。そのとき、父がとうに死んだ母の話をよくした。
「真っ直ぐな性質の人だった。語り口が上手くてねえ。話しの面白い人だったよ。優しい人だった」
 と、目を細めて私に話してくれた。そういえば〈瀬田から見れば月上る。おだてあげればつけあがる〉だの〈人の悪口は鰻の蒲焼よりうめえ〉だの〈好きにゃあ鮫の皮のフンドシ〉など、普通の親は教えないようなことわざを知ったのは、みんな母からの聞き覚えだったような気がする。
 子どもの私からみれば、いつも背を丸めミシンを踏んでいた父と、掃除・洗濯・店とに明け暮れしていたとしか思えない母に、そんな一面があったのかと、ホッとした。
 案外、似合いの夫婦だったのかも知れない。そして、夫婦とは、他人にはうかがい知れないところのある難しくて、優しい間柄なのかもしれないと思った。母の人生は幸せだったと思いたい。

《終》


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posted by maruzoh at 18:16| Comment(0) | ◆澤田節子作品集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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