【エッセイ】五十二年前の慰問文
「あなたが二年生のときの慰問文が出て来たのよ」。小学校のときから同窓のSさんからの突然の電話である。説明されても思い当たらない。
六月初め、Sさん夫婦は久しぶりに亡くなったお父さんの実家のある稲子を訪ねた。そのとき、帰り道で万屋をやっている従兄の家に立ち寄ると「あんたぁ何年生のとき終戦だった?」と聞かれた。「三年生だった」と答えると「じゃあ同じ学校だからこの子ら知っているかもなぁ」と見せられたのが、なんと五十二年前,国民学校二年生のとき自分が書いた習字と、同じ組だった私の作文だったというのである。戦後も五十年過ぎ、自分も年をとり、ここらで若くして戦死した兄さんのものを整理しようとして仏壇の下の引き出しから出てきた。従兄でも年が離れているのでその時まで気が付かなかったという。
一日おいて次の日、富士市に住むSさんから大きな封筒が届いた。中にSさんの書いた「うめ、たけ」という二枚の習字と、私の「水あび」という絵のあの作文のコピーが入っていた。
「兵隊さんづいぶんあつくなりました。あいかはらずおげんきですか。私たちも、げんきで毎日學校へかよってゐます。このあついのに、へいたいさんがあのにくいべい。えいといのちをかけて、たたかってくださいましてありがたうございます。私たちははこころからおれいをもうしあげます。私たちも今から、からだをきたへて、少しでもお國のお役に立つやうに、こころがけております。へいたいさんが、はやくにくいべいえいをやっつけてくださるやうに、ここから神さまにおひのりいたしております。ではおからだをたいせつに、お國のためにおはたらき下さい。さやうなら 貴船ニノ四 篠原節子」
これが当時のままの全文である。「三年生で終戦にならなきゃすごい軍国少女になっていたなぁ」。夫は何度も読み返しながらつぶやいた。この短い文に「にくい米英」が二度も出てくるのだ。教育といういうものの恐ろしさ、大切さが胸にこたえた。慰問文は出征していた従兄の兄さんが横須賀から駆逐艦「帆風」で出撃した時、私物を実家へ送ったものだった。そして二十歳の兵士はやはり帰ってはこなかった。
一年生だった私は二人の息子に二人の孫がある。妻も子も見ずお国のために散った若い命が痛ましい。こういうたくさんの犠牲の上にもたらされた平和であり、平和が続いたからこその日本の繁栄を私たちは決して忘れてはならない。盆に帰省する息子夫婦や孫たちにこのコピーを見せようと思っている。
《終》
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