【エッセイ】通り過ぎていった猫たち
夕方の買い物の帰り、近道をしようと神社の裏の小路を足早に歩いていた。
「あっ、トラコ!」。思わず立ち止まってしまった。黄昏の狭い道を横切って森の中に消えていった小柄なトラ猫は、十五年も前に家で飼っていたトラコに驚くほど似ていたから──。
トラコは、頭のいい肝っ玉母さんだった。気も強いが、プライドも高かった。子育てが巧く、そのたびに飼い主としてはその仔の貰い手に一苦労したものだが、当時は削り節を一袋つけて貰ってもらった。そんな日は急に姿が見えなくなったわが子を捜して歩き、しまいには声も嗄れて口だけパクパクさせて回っていたのだった。
近くに広い休耕田があって、そこはトラコの縄張りだった。良く晴れた日に、小高い石の上にじっと座っている姿は、風の音でも聞いているような風格があった。蛙や雀を捕るのもうまかったが、獲物を銜えて自慢げに見せに来るのには辟易した。四十センチぐらいの動いている蛇を銜えてきた時には、私の悲鳴で隣の奥さんがとんできたくらいだ。
トラコは犬に似たところもあった。玄関近くに狛犬のポーズで座っていては、変わった人を見るとさっと背を丸めて、うゝゝと唸って向かっていくのである。そのころよく来た便利屋の威勢のいいにいさんは、大きな荷物を両手で抱えたまま「奥さんハンコ!」と外から騒ぐ。「こわいよ、この猫は──」と、怯えるのでなめられるのか次もまた唸られる。
息子たちが小さかった頃は土曜の夕食など「今日は外で食べよう」というと飛び上がって喜んだ。親の方も相応に若かったのか、手抜きを「外食だぁ」とごまかして、一緒になってはしゃいだ。そんな時トラコはいつも途中まで見送りにくる。大通りに出る前で、にゃーと言って消える。やがて、ソフトクリーム片手に鼻歌まじりの足音を聞くと、かげのように、にゃーと現れるのである。そのトラコが、自分の子が成婚になった時、大喧嘩の末身をひくように家出した。二年後、家を忘れなかったのか古雑巾のようになって帰ってきた。その時はもう脱水症状がひどく近くの犬猫病院で死んだ。八年半生きた。武家の女を思わせる一生だった。
親を追い出したミケは、ミケランジェロといういい名前を付けられたわりに平凡で、ずるがしこい猫だった。長生きしたので年をとると、戸を開けたり、冷蔵庫まで開け、「そのうち化け猫になるんじゃない」と笑った。
ミケの子のアリスは一緒に生まれた中で一番早く貰い手がついたのに、歩き出したら足が悪く、少し知恵も遅れているらしいので、キャンセルされてしまった。容貌だけは子どもたちが白痴美というほど可愛がった。少し首も悪いのか首をかしげて見上げる姿は、心を鬼にしようと決心していた私の保護本能さえくすぐった。夏目漱石が「可哀想たあ惚れたってことよ」と何かに書いていたが、可愛らしいと感じさせるのは、力のないものの持つ一つの力なのだろうか。それからが大変。外におそるおそる遊びに出るようになったはいいが、足の力が弱くて、上がり框を一度で上がれない。二、三回ずり落ちて、やっと運よく上がれるという始末。お陰で玄関の上がり框は爪の掻き傷で板が白くささくれてしまった。
ある日、外でうーうー……と唸る声がする。出てみると青い大型(何かの幼虫だろうか)の虫を銜えて萎えた両足を踏ん張って入る。私の前に置いて見上げる例の小首をかしげたポーズの得意げなこと。つい「良くやった!」と頭をなでてしまった。行動半径の狭い臆病猫なのに、いつどこでどうなったのか、お腹が太ったなと思っているうちに、物置で二匹の仔猫を生んだ。一匹は死産だった。
空き箱で柔らかいベッドを作ってやったのに、気に入らないのか、どこかに隠したらしい。少し目を離すと、おぼつかない足取りで仔猫の首を銜えて持ち出そうとする。自分だけでも満足に歩けないのに、どうしようというのだ。台所で夕食の仕度をしていると階段の方でコツコツ音がする。「あっ、またやってる」。二回へ上がってみると、ぐったりした仔猫をソファーの下に引きずり込んでいるところだった。もう死んでいた。あの音は仔猫の頭が階段を上がるたびにぶつかる音だったのだ。
五年生だった長男は「目が明かないうちで、かえって良かったかもね」。涙ぐみながら埋めてやった。二年生だった次男も「バカ!バカ!」と言いながらアリスを抱いてやった。幼い母猫は顔をすり寄せて、甘えるだけだった。アリスとミケは力の差が大き過ぎるためか、仲よく一見平和に暮らした。
アリスは四年、ごく普通の猫だったミケランジェロは十四年七カ月という長寿を全うした。
ミケが死んでから生き物は何も飼っていない。
《終》
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