【エッセイ】雲の峰
外から聞こえていたラジオ体操の音楽が終わった。「きょうも暑くなりそうだぞ」と、夫が小さなラジオを片手に入ってくる。
「朝から入道雲だよ」
私は急いで朝葱の小口切りを味噌汁に入れて出来上がり。向きあって納豆とアジの開きと蕪の漬物で食事していると、生まれたときからずっとこうしてきたような気さえする。
昭和二十八年、高校二年生だった私は、映画大好き少女だった。この田舎町に、有名な映画監督が旅行の途中、友人の洋裁学校へ立ち寄った。
その夜、映画愛好者と「語る会」を開くという。怖いもの知らずの私はセーラー服のまま駆けつけた。会場のドアを細目に開けてのぞくと、そこは別世界だった。
戦後の復興のエネルギーと、文化への渇望がうずまいているような熱気を感じた。もうもうとしたタバコの煙、声高な議論が飛び交い、ひげ面や長髪の男たちが見える。
思いがけない雰囲気に慌てて今上がってきた階段を降りかけると、この洋裁学校の先生Kさんが上がってくるところだった。
「帰るの?女の人がいなくて困っているのよ。一緒に並びましょうよ」
笑いながら両手を広げて遠せんぼをした。そのまま私はくるりと後ろ向きにされ、トットットッと二階まで押し上げられてしまったのである。その帰り道、はあはあ言いながら追い駆けてきて、映画のシナリオを無理に貸してくれたのが夫である。
窓の外の雲の峰はどんどん成長して、若い夏を謳歌しているようだ。雲はいっ時として静止してはいない。世相も高度成長からオイルショック、バブル崩壊と荒々しく変化し続けた。わが家でも二人の息子が成人し、それぞれの伴侶を見つけて自立した。
夫婦は恋・愛・肉親・空気と変化していくという。私たちも空気になりかけている。
「次は何になるの?」
「そりや煙さ」
「まったくだ!」
二人で大笑い。とりあえず今年の夏も元気に乗り越えよう。
《終》
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