やさしいあなたに、そうでないあなたにも。
                        いろんなあなたに、こころの言葉。













   【maruzoh's profile】
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名 前/maruzoh こと 熱田丸蔵
出没地/和光、富士宮、麹町
誕生日/9月7日 乙女座
好きなもの/こども、詩、絵、童話、小説、音楽、お酒、美味しいもの、犬、野球、寺、神社、花、ギター、家族
とても影響を受けた人/灰谷健次郎さん、鹿島和夫さん、ドン・カ・ジョンさん、かしわ哲さん、PANTAさん、ジョン・ライドンさん、小澤征爾さん、帚木蓬生さん
maruzohより一言/運も、人も、夢だって、欲しがり過ぎると逃げてっちゃう。幸せは、み〜んな天下のマワリモノ。みんなで仲良く分け合おう♪

2012年08月30日

【エッセイ】父の乗馬ズボン


【エッセイ】父の乗馬ズボン


 一つ違いの従兄が癌で亡くなった。今は咄嗟に顔も浮かばないほど疎遠になっているが、父の実家の長男でもあり、何十年振りかで葬式に参列した。
 父の実家には、子どものころ、夏休みには泊まりがけでよく行ったものだ。今はすっかり様変わりしていた。
 ここは町村合併で市内になっているとはいえ、葬式は昔風だ。火葬場へ向うバスは二〇〇メートルほど先に停車していて、そこまで野辺の送りにふさわしい行列が続いた。
 野辺の送りの行列の中にいた私はゆっくりと歩きながら見上げると、雲一つない空に夏の富士山がくっきりと真正面に見えた。ああ、父は毎日この富士山を見上げながら大きくなったんだなあと、もう何十年も前に亡くなった人を思った。

 父は農家の四人兄弟の二男として生まれた。四歳のとき、農繁期に親の目が届かなかったのか、遊んでいたそばの墓石が倒れ、それがもとで骨髄炎になった。明治の終わりころのことである。手を尽くしたとはいえ、この子は大人になるまで育たないといわれたそうだ。それで親は死神を欺くつもりだったのか、名前を変えて戸籍の名前のほかに甚一という通称があった。
 夏休みに遊びに行った子供のころ、近所のおじいさんに「甚ちゃんの娘かい?そうかい、よかったなあ」と言われ、不思議に思ったことがある。

山村の小学校は遠い。父は入学した尋常一年のとき、峠まで母親に背負われて通学していたという。峠で背から下ろされ、母親が見えなくなると、悪童どもに「ちんば」とからかわれたもんだと、晩年父が漏らしたことがあった。親は「お前は足が悪いから、上級学校へ行って先生か勤め人になれ」といったが、勉強が好きでなかったのか「おりゃ、手に職をつける」と、高等小学校を卒業すると自分から仕立屋へ弟子入りした。
 その家に一つ年下の男の子がいた。初めて紹介された日、当然のようにその子に「鋭二!」と、本名で呼び捨てにされたショックは生涯忘れられなかったという。
 ここでの三年間の徒弟時代は足の悪い分、親や兄弟の中でぬくぬく育った少年には、大きな試練だった。それが少し頑固でもあるが、不屈の性格をつくったのだとも思えた。

 一人前の職人になると、父は迷わず東京へ出て行った。今思うと朝夕眺めていたあの山の向こうの世界へ、この狭い集落から飛び出して行きたかったのであろう。
 目黒の競馬場近くの大きな店に職人として住み込みで働いた。自由な夜の時間には、近くの牛鍋屋へ行って、そこに集まる客に乗馬ズボンや衣類の出張販売をした。父は乗馬ズボンが得意だった。
 晩年、半年くらい寝たきりになった父を、近所に住んでいた私は週二回、半日は洗濯や介護、半日は話し相手に通った。若いころの話や母の話もその時、聞いたものが多い。
 職人時代の話しだろうか。牛鍋屋の仲居に一緒になってくれといわれて困った──と話した時、ヒッヒッという笑い方をしたのが可笑しかった。あの父にも、そんな時代があったのだ。
 東京から呼び戻されて、この町に小さな家一軒を買い、遠縁に当たる娘と結婚した。父が二十四歳、母が十九歳のときのことである。小さな家とはいえ、その年で家一軒買い、開店資金まで貯めていたとは、今の私には考えられない。そのとき父は、食い扶持ほどの田んぼをもらって分家した。
 実家からはその後も大樽の味噌とか漬物が馬力で運ばれてきたのを覚えている。親は足のことを生涯気にかけていたのであろう。
 東京から来た仕立屋は当時の田舎では物珍しく、よく繁盛したようだ。私は大人になってから「お父さんの乗馬ズボンは丈夫で、はきよかったよ」といわれたことがある。
 現金仕入れの現金売りで、洋品店と仕立屋を兼ねた店だったようだ。父の一番生き生きしていた時期だったかも知れない。
 
 やがてあの戦争。衣料品は統制品となり、切符制になった。そのころ一時、保険の外交員をやったこともある。父としては珍しい背広にネクタイ姿の当時の写真が一枚だけ手許にある。
 戦争が激しくなると、父はさっさと家を売って、家族を連れ生まれた村へ疎開した。村の国民学校へ兵隊さんが駐屯していた。どこから聞いたのか乗馬ズボンを作ってくれと軍隊毛布を持ってきた人がいた。それが大変気に入られて縫い賃のほかにカルピス一本ドン!と置いていった。その美味しかったこと、戦争中の子には、世の中にこんなに美味しいものがあったのかなと思ったほどだ。そのころ、父は保険の外交員と仕立屋の二足の草鞋だったのだろう。
 引っ越して五か月で終戦になった。すると父は、買ったばかりの家を二束三文で売って、この町に古い家を買い求め、その年の十二月に転居した。そして、農地改革により不在地主だった食い扶持ほどの田んぼを只同然で取られ、妻と五人の子どもを抱え一からの出直しとなった。

 戦後まもなく父はどこからか船の帆にするようなゴワゴワと厚い木綿の布を大量に探してきた。帆布と呼ばれるものだと思う。それで乗馬ズボンを作った。物のない時とはいえ、こんな奇妙なズボンが飛ぶように売れた。
 初めは自分で大風呂敷に品物を包み、自転車の荷台に積んで近郊の農家へ行商に行った。帰りはいつも風呂敷を腰に巻いて鼻歌まじりで帰ってきた。すぐ売り子志願や、縫い子志願が出てきた。やがて店に並ぶ商品も品数が増えてもとの洋品店になった。近郊農家相手の行商人への卸しも始めたので人の出入りが多くなった。浅間さんのお祭りには出店まがいの戸板を拡げてズック靴の特売もした。
 
 私が高校三年のとき、父は長年の過労からか骨髄炎が再発した。当時まだ高価だったオーレオマイシンをたくさん服用したが、とうとう片足を大腿部から切断しなければならなくなった。私は今でも足のない片方のズボンを折り曲げ、腰のベルトにはさんだ松葉杖姿の父を思い出すと胸が痛くなる
 母とは典型的な夫婦付随に見えた。母は五十三歳で脳いっ血のためあっけなく他界した。その時の父の落胆ぶりは痛ましかった。
 父の生涯は運命や時代に振り回されながらも、生き生きと逞しく戦中戦後を生き抜いた。青春時代の私は父に反発もしたが、今この文を書きながら大好きな父であったと再認識している。晩年の父は皆にかばわれながら七十歳まで生きた。

《終》


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posted by maruzoh at 07:48| Comment(0) | ◆澤田節子作品集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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