恋愛ごっこ ―最終回―
本数の少ない小海線も始発の駅では、近郊の年寄りなどでかなり混んでいた。四人は向かい合ったボックスに席を占めてほっとした。網棚に荷物を載せ終えた明彦が
「奈津子に少し買いすぎだな」
「えび・鯛よ。少しは投資しなくちゃねぇ」
「俺、油絵具一式もらったら、一番先にひまわり描くつもりだ」
「木枯らしが吹き始めるってのに、どこにひまわりが咲いてるのよ」
富子がからかった。
「ばか、模写だっていいんだ」
「ゴッホの? ま、ひまわりでも桜でも描いてください」
「お前は、そうやって馬鹿にしてるんだ」
明彦の剣幕に富子は慌てて
「でもね、あんたが鉛筆舐め舐め競馬の予想をしたり、パチンコで負けてイライラしているのを見ているより、私は本当にうれしいのよ。あんたにこんな面があったなんて惚れ直したわよ」
「そうか、時さんには感謝だな。ま、碁で時々負けてやるから」
時蔵は明彦の軽口の会話に、にこりともしないで、八ヶ岳の山々を見ている。怒っているようにも、甘えているようにも国子には見えた。
国子は初めて時蔵に誘われて山梨県立美術館へ行った時のことを考えていた。母のきわに指摘された時は、むっとしたのだったが、確かに国子の行動はそれまで考えられない出来事だった。
どんな生き方をしてきた人でも、それまで生きてきたことに、それなりに学習して生きてきている。時蔵の年齢になれば、自分で物事を判断する芽は育っているはずだ。出会った場所が図書館だったし、その雰囲気から時蔵が人を騙すような、品性下劣な人にはとても思えなかった。公共の乗り物での日帰りで、行き先は美術館だとはいえ一度行ってみたいと思っていたので、つい乗ってしまった自分に嫌悪感を持って悩んだ。時蔵に軽い女だと思われはしないかと気になった。それがさらに国子を用心深くしたような気がする。
六十代もちょうど半ばに差しかかった時、そのまま衣食住に困らないというだけで、長生きして幸せといえるだろうか。所詮、生きるというのは、死ぬまでの暇潰しみたいなものではないか。子育てや仕事の現役を終わってから、どんな暇の潰し方をするかが、その人の個性であり、価値ではないか――国子は反芻し自らに問いかけた。
二十代の初め同僚の教師と電撃的に結婚した。仕事と職場にくたくたになりながら、まだ新婚の夫と親しかった同僚の女教師との噂に振り回され疲れ果て、ボロボロになった。とうとう不倫が発覚し、手をついて謝られてもどうしても許せず、すぐ離婚した。不倫相手の女教師が転勤すると、元夫はその後を追って再婚した。二人とも定年まで勤め上げ、二人の子供も成人したと風の噂に聞いた。女は別れの時は鬼になるという。そして何十年も影を潜めていた鬼がまだ国子の中に棲んでいたのを知ったのだった。そんな自分が惨めだった。
時蔵と知り合った後、国子は変わったと周りから言われた。そういわれると、自分でもそんな気がしてきた。年齢なんて関係ない。
――それに恋は性が伴わない方が本当は強いのかも知れない――少なくとも純粋なのだ。恋に陥ちてみるのも悪くないな、陥ちてみようかな――それだって、何もなく、そのまま人生を終えるより余程いい。そう考えると、やはり私は変わった!と、国子は一人で可笑しくなるのだった。
「いやね、国子さん、思い出し笑いしたりして」
富子は明彦を見ながら
「絵具を娘に買ってもらって、ゴッホの向こうを張って、まず、ひまわり描くなんて真面目な顔して言うんだものね。誰だって笑うわよ、ねえ」
国子は「そうじゃないのよ」と打ち消しながら、ちらと視線を寄こした時蔵に心の中を見透かされたような気がした。
初冬の八ヶ岳が吹き清められたような神々しい姿で夕日に映えて光っていた。山襞の陰が薄い紫色から、やがて濃い紺色に移り変わってゆくのを国子は確かめるようにじっと見ていた。
《完》
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