恋愛ごっこ ―第5回―
小林国子が図書館に現れるのは、一週間に一回程度だということが、最近分かった。すると今日あたりは来そうなものだと、時蔵はこころ積もりした。昨日明彦が置いていった人形の絵をくるくる巻いた。
ウィークデーの昼下がりの喫茶店は空いていた。一番奥の前回と同じ席に向き合って腰を下ろした。ここに来たのは二度目だった。時蔵は、明彦の描いた人形の絵を目の前に広げた。
「あら、ご自分でもお描きになるのですか」
国子は意外そうに時蔵を見つめた。
「―-」咄嗟にことばが出なかった。
「習えばどんどん上手くなりますよ。筋がいいもの――、お上手だわ」
国子は目を細めたり、絵を手に持って離したりして見ている。
「実は私、定年まで中学校で美術の教師をしてたんです」
時蔵は返す言葉を失い、沈黙した。焦れば焦るほど、時蔵の傷口は大きくなってしまう。それを埋めようと一転して饒舌になる。機転の効かない時蔵は、公民館の絵画教室のことまで喋ってしまい、尻切れトンボのようなちぐはぐな思いで、昨日から楽しみにしていたデートを終えた。
家に帰るだらだら坂を上りながら、時蔵は幾度も溜息をついた。嘘というのは事実を曲げて言うことであるが、重要なことを話さないのも嘘の一種であると、時蔵はにがにがしく思った。国子が急に高慢ちきな女に思えてくるのだった。
上り詰めたところに川が横切っている。その橋に立った時、時蔵は思わず手にした絵をぐちゃぐちゃに丸めて川に投げ込んだ。人形のあどけない顔はいびつになりながらも、何もなかったように流されていった。自分の家の前で、初めて明彦の絵を思い出した。
「本当に申し訳ない。立ち止まってみていたら風に飛ばされて流されていっちゃったんだよ」
時蔵は冷や汗が出た。
「いいよ、いいよ。気にしなさんな。ありゃあ.、教室で描いたんじゃないんだから。明日行くら?」
「あぁ、明日だったか――」もう一週間たったのだ。
「絵具、自分の水彩絵具で、いいのかなあ」
「いいんじゃないか」返事は上の空である。話し声を聞きつけて、明彦の妻の富子が台所から手を拭き拭き顔を出した。
「いつも、お世話になります。お茶でも」
「いや、すぐ失礼するから」
「いいじゃありませんか、村上さんに絵画教室誘ってもらって、よかったですよ。長く続けてくださいね。あれからパチンコ行ってないですものね」
「何言ってるんだ。また行くぞ!」
「気晴らしならいいさ、毎日根詰めて行くとこじゃないって言うの。年金暮らしの家計も考えてよ」
「人の前でよせよ」
今の時蔵には、犬も喰わない口喧嘩も羨ましかった。
国子は畑の中の道を帰りながら時蔵のことを考えていた。何となく要領を得ない話のような気がしたが、要するに時蔵さんは自分の関心を引くために、美術音痴で自信がないので、友人を誘ってまで中高年のための絵画教室に行きだしたというのである。結果は裏目に出たのだったが――。あの美術館行きも一種の芝居だったのか、でも国子は不愉快ではなかった。時蔵を悪い人とは、とても思えなかったからだ。教師という職業と、バツ一というハンディを背負って必要以上に自分で身を正して生きてきてしまった自分がいとおしくもあった。同僚から堅物だと陰口を聞かれているのも知っていた。その自分にこんなに気を遣ってくれた人が他にあっただろうかと思った。誰かに必要とされ、選ばれるほどうれしいことはない。そう思うと、時蔵の他愛ない嘘はほほえましいとさえ思えた。
《つづく》
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