恋愛ごっこ ―第1回―
村上時蔵は、自分の少し古風な名前が嫌いではなかった。二年前くも膜下出血で突然亡くなった妻の美代子が、晩年「時蔵―さん、お茶が入りました」悪戯っぽく笑いながら振り返って呼ばれたのが最初だった。
美代子は子供たちが教育費のかかった時期はパートにも出ていた。やがて長男、次男が相次いで結婚した。二人ともどういうわけか嫁の実家近くに家を建てた。その頃も影になり日向になって面倒を見ていたようだった。
積極的で、しっかり者の美代子は百まで生きるものだと思っていた。それが友人に電話を掛け終わった直後、くずぐずと蹲り、救急車で病院に搬送されたが、二日後にあっけなく逝った。六十三歳だった。
時蔵は、現役中はもちろん定年後の十年間も、いかに美代子に寄り掛かった暮らしであったか思い知らされた。二年経って、そんな毎日にも、それなりのマイペースが出来たのはごく最近のことである。現役時代の仲間は勤めが終わればそれまでだった。
近所の碁仇きにも三回続けて負かすと、見え見えの居留守を使われたりして時蔵から話はなくなった。働き盛りの子供らも滅多に顔をみせなくなった。
時蔵は一人旅でもしてみようかと、旅の本を借りに図書館へ行った。本を頼りに出掛けた一人旅も、孤独な日常が移動したに過ぎないような気がして、三回目は計画倒れになった。しかし、副産物はあった。旅の本と一緒に借りた推理小説にはまってしまったのである。一度に五冊くらい借りては返し、返したらまた借りるということを繰り返していた。美代子はかなり本好きだったが、時蔵は独りになるまで図書館とは無縁で、仕事の関係書以外はのめりこんで読んだことはなかった。
その日も推理小説を借りて、喫煙コーナーに座った。一度やめた煙草もこのごろまた吸い始め、最近は本数も多くなっていた。もう一本吸ったら帰ろうと新しい一本を取り出した。前に座った夏草の柄の和服の女性が気になったからである。女は待ち合わせなのか落ち着かない。立ち上がって外を見たり腕時計をのぞいたりしていた。
「ごめん、ごめん、車置くとこがなくて……」
同年輩らしい女が飛び込んで来た。あっけなく二人が立ち去ると、時蔵は取り出した煙草には火をつけず、箱に戻して立ち上がった。
時蔵は図書館に来るたびにここで煙草を二本吸ったが、和服の女性は現れなかった。
九月になっていた。アメリカで同時多発テロ事件があった。週刊誌はセンセーションにドギつい見出しの広告を出している。時蔵は買う気もなかったが、館内にある読書コーナーで、三種類を読み漁った。
何冊か比べて呼んでふと見ると、隣にいつかの和服の女が美術雑誌を見ていた。耳の下のホクロに見覚えがあったが、Tシャツに長いスカート姿は別人のように見えた。眼が合ったので目礼だけした。五冊借りた本はまだ二冊しか読んでいなかったが、時蔵はもしかして――にかけて、二冊だけ返しに行った。女は前と同じ席で、大きな美術全集を見ていた。
「やあ、またお会いしましたね」
思い切って声をかけた。
「はあ、こういう本、高価でなかなか買えないものですから」
女も時蔵を覚えていたようだ。
「私も美術は大好きで――」
時蔵自身が呆れるほどの無手勝流で、山梨県立美術館へ誘っていた。女は小林国子と名乗った。
《つづく》
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