時計 ―第1回―
人の背丈ほどの石垣が続いている道を、美奈子はゆっくり歩いていた。石垣の上は小学校の校庭になっていて、ちょうど低学年の体操の時間らしく弾けるような子供の声が聞こえる。
ここは戦国時代の出城の跡で、いま美奈子が歩いているコンクリートの歩道も、実は暗渠になっている城の堀だったのである。城下町にはたいてい一つぐらいある城山という町名にふさわしく、しもた屋が並ぶしっとりとした通りである。
美奈子は目当てにしてきた雑貨屋らしい店を見つけて立ち止まり、国勢調査と書かれた袋から地図を取り出した。どうやらこの雑貨屋が自分の担当地区の基点らしいと見当をつけた。
自分の家からも五分ほどと近かったし、マンションが二つあるが、美奈子の苦手の飲み屋はない。昼間留守の家は夜を待って調査票を配ったり集めたりするのだが、その時は夫が付き合ってくれるだろうとたかを括った。身分証明書を確認し、初めて訪問する家の前で美奈子はもう一度、国勢調査のお願い文を反芻した。
十軒ぐらい配ってほっとしたところで、昔風の木の表札に「野沢英男」と書かれた家があった。このごろ、家の表札はたいてい横並びに家族中の名前を書いたのが主流である。形通りのお願いをすると、テレビや新聞で宣伝が行き届いているせいか奥さんらしい人が気持ちよく受け取ってくれた。美奈子は集めに行く日を決めてメモに記入した。
夕食の時、美奈子は夫に尋ねた。
「野沢英男って誰だっけ……」
「うちの重役じゃないか」
「あぁ、どっかで聞いた名だと思った。近くに住んでいるのよねぇ」
「すぐ坂の上だよ。目をかけてもらってる」
説明会の時、くどいほど秘密の保持を言われているのを思い出し、美奈子はそのまま押し黙った。
一週間ほどして配った家から順に調査票を収集した。野沢の家からも型どおり受け取った。しかし、奥さんがどうも自分を上目使いに見ているような気がして美奈子は戸惑った。一通り目を通して、書き落としや不鮮明な文字を訂正するように役所から言われている。目を通しながら、あれっ、と思った。奥さんの欄がその他≠フところにマークしてあるのだ。ここは世帯主に対し、親戚か同居人みたいな人がマークする欄である。
「あのう、ここ間違いじゃありませんか?」
「それでいいんです!」
相手はきっとして答えた。
「失礼しました」と美奈子が慌てて手提げ袋にしまい、礼を言って帰りかけると
「山本さんの奥さんですわね」と呼び止めた。
「野沢がお世話になっています。このことは他には……」と、口に人差し指を当てて笑った。
「勿論です!法律で……」
美奈子は言いかけて、二人は一緒に笑い出した。
その夜、夫の幸二の帰りは電話もなく遅くて美奈子はいらいらして待った。業を煮やして食べ始めると九時近くになって、いいご機嫌で帰ってきた。
「野沢専務にそこまで送ってもらった。飯、食ってきたから」
「電話ぐらいしてくれりゃいいじゃない。ずっと待っていたのよ」と、美奈子は気色ばった。
「帰りがけに急に肩叩かれてさ……目の前じゃ掛けにくくて――」
「何でもいい格好しいだから……今日だって知らなくて恥かいたわよ。
あなたは人の悪口は言わない人だからね」と皮肉ると
「そうだってな、友だちになってくれって言われた。頼むよ」
どうやらもう連絡はついているらしい。
「あなた、知ってた?」
「あぁ、社の中じゃ、暗黙の了解さ。よそに奥さんと小学生の男の子が二人いるらしいぜ」
幸二は水をガブガブ飲んだ。
《つづく》
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