俺様とマリア volume.64 瞬殺宣言
ムエタイの試合前に選手が踊る儀式を日本ではワイクーと呼んでいるけど、正式なタイ語では「ワイクルー・ラムムアイ(ไหว้ครูรำมวย)」というらしい。「ワイクルー」は師と同時に両親に礼を示すことで、舞踊様の動きが「ラムムアイ」。自己の闘争心を高めて、戦いの神に無事と勝利を祈る儀式だ。正式なムエタイの試合では、外国人などのラムムアイの作法を知らない選手でも、試合開始前にはロープに沿ってリングを一周してから、自分の出生地の方角に向かって跪(ひざまず)いて師、父、母へと計三度礼をすることが義務なんだそうだ。
その神聖なワイクルー・ラムムアイの最中、コーナーのエプロンサイドでウェアウルフの傍らに立ったリンダが、こともあろうにチャンプアを指差して大声で笑い始めた。
「きゃはははははは・・・
何なの、あのへんてこな幼稚園のお遊戯みたいなの。
伝統の儀式だか何だか知らないけど、あんなんで勝負に勝てるつもりでいるの?
だってそうじゃない、ははは、踊るだけで強くなれるんだったら、
日舞やバレリーナなんか最強になっちゃうわよ、ねえ。
馬っ鹿みたい」
儀式を終えた青コーナーのチャンプアは、言葉は分からずともムエタイの誇りを汚されたことを敏感に感じ取ったのだろう、褐色の肌を真っ赤にさせている。微笑みの国であるはずのタイのムエタイランカーが怒髪天を衝くほどに激怒しているんだ。そりゃあそうだろう。日本の国技大相撲の大一番で、立ち合い前に外国人が「尻が丸出しだ」って指差して大笑いしてたら力士だって黙っちゃいないさ。
怒り心頭のチャンプアは、なだめるタイ人らしい通訳に恐らく「あの女を早く鉄格子の外に出せ」とでも言ってるんだろう。リンダを指差して早口のタイ語で捲くし立てている。おいおい、仕舞いにゃ地団駄まで踏んでやがる。こりゃあ相当怒ってんぞ。
「ふん、随分と器量が狭い男だね。
ちょっとは洒落を理解しようとするくらいの器が無いのかね。
男のヒステリーかい、ああ、嫌だ嫌だ」
自分が蒔いた種だってのに、リンダはまるで他人事みたいな口ぶりでどこ吹く風だ。この女狐に関わると、一人残らず誰もが腹を立てて、結果必ずトラブルが起きる。本当に疫病神みてえな女だよ。
コーナーのエプロンサイドから汗だくでチャンプアを落ち着かせようとしている通訳が、必要以上に大きな仕草で2度3度と大きく頷くと、リンダを指差して本部席の神龍に向かって叫んだ。
「オネガイシマス。
アノ オバサンヲ ハヤク リングカラ ダシテクダサイ」
「お、おば・・・」
や、やばい、禁句が出ちまった。あの4文字だけは言って欲しくなかった。案の定、リンダの顔つきがさあっと変わる。額に稲妻のような血管が現れて、手がわなわなと震え始めた。
「オネガイシマス。
アノ オバサンヲ・・・」
お、おいおい。ご丁寧に2回も繰り返すんじゃねえよ。マジやばいよ。今度はリンダが怒髪天になる番だぞ。
「・・・・・・・・」
いや、リンダは無言だった。無言だったが、俯き加減から上目遣いにチャンプアを見る眼が青白く燃えている。炎の温度が高くなるにつれて赤から青くなっていくように、怒りの沸点を通り越したのかリンダは不気味に青白く、そして冷静だった。
「伝統ある国技ムエタイのプライド。
お前のムエタイヘビー級ランカーとしてのプライド。
その2つを根こそぎお前から奪い去ってやる。
秒殺じゃない、瞬殺でね。
開始から5秒。
お前は一体何発の打撃を受けるかしらね」
いつものヒステリックなリンダの百倍は怖いリンダがそこにいた。でも、俺様の中には大きな疑問が残っていた。本当にチャンプアはタイ語で「おばさん」って言ったんだろうか。さっきのが、タイ人通訳のボキャブラリー不足からの発言だとしたら、チャンプアにとってはいい迷惑この上ない話だよな・・・
【To be continued.】
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